五木ひろしの光と影<18>「先輩、実は新しい芸名が付いたんです」と青年・三谷謙は言った
目黒の権之助坂に総工費1億2000万円(現在の価値で約5億円)の自社ビルを建て、日本に数台しかなかったリンカーン・コンチネンタルを乗り回し、下戸なのに毎晩銀座を闊歩した。「金はいくら使っても減らなかった」と野口修は言った。あながち嘘ではないかもしれない。沢村ブームは日本中を席巻していたからだ。
凡百のプロモーターなら、そこで得た財を次の興行に備えてプールするか、選手のファイトマネーを格段にアップさせるか、設備をさらに整えることに使うかもしれない。もしくは次代のスター発掘のための資金か、キックボクシングの世界進出のために用立てるかもしれない。生前の野口修は「そういうのにも使ったよ。使って使って使いまくった。それでもまだ余っていた」と豪語した。「このとき手元に自由になる金が4億~5億あった」とも言う。現在の価値に換算して12億~15億円といったところだろう。その大金を、彼は芸能部設立につぎ込んだのである。
「ある日、ビル3階のオフィスに顔を出したら見知らぬ青年がいた。社長が『反町、紹介する。歌手の三谷謙君だ。三谷君は今度ウチに所属するんだ』って言うんだよ。野口プロは社長の独断で決めていたけど、大体は沢村さんや俺には報告があった。でも芸能部ができるのはそのとき知った。だから、あれは突然決まった話だと思う」(野口ボクシングクラブ所属のプロボクサーで第11代東洋ウエルター級王者の龍反町)