美川憲一がジャニー氏性加害問題に言及した重み…“オネエキャラ”転身までの苦難の道のり
飛躍のきっかけとなった「柳ヶ瀬ブルース」は、120万枚のミリオンセラーを記録。その後も「新潟ブルース」や「釧路の夜」とヒットが立て続き、1968年にNHK紅白歌合戦に初出場して以来、7年連続出場した。
転機が訪れたのは、紅白に落選した75年から2年が経過した77年。美川は大麻取締法違反容疑で逮捕された(のちに不起訴に)。さらに、84年に大麻取締法違反容疑で再び逮捕され、懲役1年6月、執行猶予3年の有罪判決を受けた。それ以降、美川が置かれた状況は一変した。
■「もっとはじっこ歩きなさいよ」は開き直りのセリフだった
芸能界を干された美川は、以前から新宿3丁目の寄席「末広亭」近くで、サパークラブ「ろくでなし」を経営していた。たまたまその店の常連客だった筆者は、まだテレビなどで解禁していなかった〝オネエ言葉〟で美川に接客されたことを記憶している。
前出の音楽関係者は「美川はデビューの頃から、古賀先生に可愛がられていたことや、その仕草からさまざまな噂がありました。しかし、熱烈なファンがいる手前、カミングアウトできずに本人は苦しんでいたと思います。最近で言うと、現在歌手活動休止中の氷川きよしと似たような境遇ですが、LGBTQへの理解が進んでいる今よりつらい状況にあったのは間違いないでしょう。大麻に手を出したのも、その苦しみから逃げるためだったんじゃないかと言われていました」と話す。