【東京佐川急便事件】異聞(1)バブル崩壊で開いたパンドラの箱
金丸脱税事件摘発の1年前。戦後日本の負の遺産が噴出した根の深い事件が摘発された。運送大手の佐川急便グループの中核企業、東京佐川急便を舞台にした巨額背任事件である。政界のドン・金丸信を失脚させ、自民党最大派閥の竹下派分裂-小沢一郎らの脱党-総選挙での自民党の敗北、下野。連立政権の誕生──と続く戦後政治の一大転換劇のきっかけになった。金丸の脱税事件摘発は、この大きなドラマの一幕にすぎなかった。
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私事になるが、筆者は東京佐川急便事件のちょうど1年前の1991年2月、毎日新聞社から朝日新聞社に移籍した。満40歳。早い人ならデスクになる年齢だ。今でこそ、新聞、テレビからネットメディアまで記者が会社を渡り歩くのは珍しくなくなったが、当時は、大手紙の記者が別の大手紙に、ましてその年齢で移籍するのは珍しかった。
毎日新聞では大阪、東京の社会部で警察、検察・裁判所取材や権力犯罪告発型の調査報道を担当。朝日新聞でも東京社会部の遊軍記者となった。
「何をやってもかまわないが、とりあえず、『持ち場』を」というので、当時、社会部ではカバーしていなかった大蔵省の市場監視部門を担当することにした。
日本の金融市場は新たな時代を迎えていた。1980年代前半の金融自由化とプラザ合意(85年)で政府は長期の金融緩和を余儀なくされ、株、土地の資産バブルが起きた。金融機関から重厚長大産業まで多くの企業が軒並み浮利を追い、財テクに走った。その陰では、暴力団や、暴力団のフロント企業など反社会的勢力が跋扈していた。
89年暮れ、東証1部上場企業の日経平均株価はピークの3万8900円をつけたあと急落。それが引き金になってバブルが崩壊すると、目をそむけたくなるような供宴の残骸が姿を現した。財テクに走った企業がばたばたと経営破綻。反社勢力に食い荒らされていることが判明したのである。
その後始末を兼ねた経済事件摘発の季節が始まっていた。大蔵省の市場監視部門である証券局はそういう事件情報の宝庫だったのだ。検事の出向も始まっていた。