生き証人3人が語る 平成5年「ドーハの悲劇」の真実<後編>
土壇場で同点に追い付かれてしまったオフト日本は、ライバルの韓国と「2勝1敗2分け・勝ち点6」で並び、最後の最後にアメリカW杯行きの切符を手にしたのは、得失点差で日本を上回った韓国だった。
都並「ベンチの右端で試合が2―1のまま終わるのを待ち構えていたのですが、あの瞬間に時が止まってしまった感覚でした。ゴール裏のサポーターに挨拶に行ったのですが、自分ひとりで行ったのか、それともチームで行ったのか、全く覚えていません。ピッチの上にへたり込んでいるラモスさんの背中の背番号10がとても印象に残っています。あのドーハの悲劇というのは、いろいろな意味で日本サッカーを大きく成長させてくれたと思います。そもそもケガ人の僕がチームにいてはダメなんです。あの時代、そうはっきり言える人がいなかったんです。ケガをしているけど何とかなるだろう、各ポジションのバックアップが薄いけど何とかなるだろう、日本代表は強いからW杯に行けるだろう――。昭和から平成にかけた時期、そんなアバウトな感覚が残っていました。ドーハの悲劇を経験した1993年というのは、日本サッカーの大きな転換期となりました。ドーハの悲劇の戦犯である自分が生き証人として、今後も語っていきたいと思います」