守護神・川口はアトランタ五輪最終予選のサウジ戦が「ベストゲーム」と振り返った
JFA強化委員会のトップとして、西野を五輪代表の監督に推薦した加藤久も「五輪(本大会)に出ること自体が(28年ぶりと)久しぶりだったのですが、若い世代が育っているのでオーバーエイジ枠を使う必要はなかった。西野監督とも話しましたが、次の世代に代表を繋げていくためにも(23歳以下の)若い選手で五輪に行こうと決めました」と証言する。
■美学を貫いた加藤強化委員長
話は前後するがーー。
1995年秋、加茂監督続投を巡って起きた騒動とネルシーニョ監督の発した「腐ったミカン」事件があり、加藤は強化委員長を辞任するつもりだった。
しかし、西野監督から1996年3月の「五輪アジア最終予選までは辞めないでくれ」と頼まれた。
早稲田大の先輩に当たる西野の頼みである。
加藤はアジア最終予選の突破を見届け、1996年3月末日の任期満了を待って強化委員長を退いた。
それは加藤なりの美学を貫いた結果だったのではないだろうか。