「数学する人生」岡潔著 森田真生編
近年、数学者・岡潔(1901~78年)の著作の復刊や選集の刊行が相次いでいる。「人の中心は情緒である」と述べた岡先生の言葉を時代が渇望する。その現れであろう。なかでも、群を抜いて「肉声」に迫る一冊が、本書である。それもそのはず、集中的に著作が出たあと、ぷっつりと刊行がなくなった晩年期(72年)に行われた「最終講義」1年分が編集されて収録されているのだ。むろん未刊行の講義録だ。
ところでなぜ、これまで世に出なかったのか。いくつも理由はあろうが、ひとつは話題があまりにあちこちに飛ぶため、まとめようがなかったのだろう。今回、この難業を形にしたのは、編者である森田真生氏の力によるところが大きい。森田氏は、岡先生のご家族から直接、音源を渡され、繰り返し聴いた。その時期、私は森田氏に何度か会う機会があったが、岡先生が彼に乗り移っているとしか思えなかった。そこまで聞き込んだ末に、森田氏は岡先生の断片的な話題のなかに「流れ」、つまり「情」を見いだしたのだ。
ここでは詳述できないが、岡先生はこんなことを語っている。――「宇宙は一つの心」である。そして「生きることが喜びである」。これは「自他対立のない世界」(情)であり、この境地に近づくためには、ひとつのこと(情の局所的様相である情緒)に「関心を集め」つづけること。――なるほど。まさに本書がひとつ(岡潔)に関心を集めつづけた結果、自他分別のない世界に編者が至った(知的というより情的にわかった)からこそ完成した一冊にちがいない。
名著は、さまざまな読み方を可能にする。ただし共通するのは、各論として優れているにとどまらず、生きるということの視野をも広げてくれる。本書もまた、岡潔評伝、あるいは日本とは何か、学問とは何かを深める格好の書といえる。ばかりか、数学に関心をもちつづけることで宇宙と人間の真理に近づいた巨人の生命が宿っている。小我・自我が優先されすぎた結果、大きな流れを見失いさまようしかない現代社会にあって、本書は一筋の光である。しっかりと大地に根ざした学問、社会づくりを再建していく。こうした時代の要請を実行するためにも欠かせない一冊だ。(新潮社 1800円+税)