処世術を楽しむ時代小説特集
「絵師の魂 渓斎英泉」増田晶文著
追いつめられたときの身の処し方で、その人の真価がわかる。武士や絵師、噺家など、おのれの置かれた立場や生業に向かい合い、才覚と意志をもって峻烈な人生を生きた男を描く時代小説5作を紹介しよう。
美人画で知られる絵師、英泉に、広重の「東海道五拾三次之内」で当てた保永堂竹内孫八から注文がきた。木曽街道六十九次すべての宿の絵を描いてほしいというのだ。引き受けて木曽街道に出掛けた英泉は、帰途、板鼻宿に逗留する。
宿の主人は英泉を、行く先々で絵を描いて路銀をひねりだす旅絵師程度に見ていたが、英泉が広重の「東海道」をしのぐ「木曽街道」を描くことを知ると態度が変わる。自分より広重のほうが有名だと知って、英泉は面白くない。江戸に帰って北斎を浦賀に訪ねると、北斎は「広重は浮世絵で発句をつくってやがるのかもしんねえぞ」と言う。英泉が木曽街道の仕事で新境地を開拓したいと言うと、「与謝蕪村の句をよく読みこんでみろ」と真顔で言った。(第8章)
妖艶で退廃的な美人画を描いた渓斎英泉の生涯を描く、8編の連作時代小説。 (草思社 1800円+税)
「介錯人」辻堂魁著
浪人、別所勝吉は牢屋敷首打役の「手代わり」を生業としていた。首を打たれた罪人の胴を試し切りして、その刀の利鈍を鑑定して謝礼をもらっている。かつて父が切腹する者の介錯を務めたことがあることから、「介錯人・別所一門」と称している。せがれの龍玄は「血を見るのはいやです」と言っていたが、18歳のとき、勝吉に代わって「手代わり」を務め、勝吉が「凄いものを見た」と言うほどの腕を見せる。
ある日、介錯を頼まれ、切腹する本人、岩本錬三郎の家に招かれた。岩本は、龍玄が、斬る者と斬られる者の間に一瞬の相通ずる心の働きが生じる機に首を打つと聞いて、介錯を依頼したという。だが当日、切腹した岩本の腹からはらわたがのぞき、検使役が「介錯を」と叫んだとき、岩本は「まだだっ」と制した。(切腹)
介錯人の矜持を描く4編。
(光文社 1700円+税)
「炯眼に候」木下昌輝著
織田信長は南蛮人の地球儀を見るや、この世は丸いと悟った合理主義者である。武田との戦いを控えて、信長は3000の鉄砲で武田の騎馬武者を殲滅すると言い、采配できる者はいるかと尋ねた。名乗りを上げたのは明智光秀。1万5000の武田軍に立ち向かうため光秀は策を練る。1列目が撃ち終わったら2列目が弾を込めた銃を1列目に渡す鳥撃ちなら、絶え間のない銃撃ができる。だが、1列目が撃ったら2列目が前に出て撃つ3段撃ちのほうが鳥撃ちより精度が高く、速い。
光秀が3段撃ちを提案すると、信長は「十兵衛、失望したぞ」と言い、「抜き鉄砲采配」の任を解いた。そして、長篠設楽原で武田軍と対峙したとき、信長は、川を前に3重の馬防柵を造り、足軽の壁の後ろに1列の鉄砲撃ちを配した。(鉄砲)
信長の合理性を証明する7編の短編。
(文藝春秋 1700円+税)
「圓朝」奥山景布子著
怪談や人情噺で知られる三遊亭圓朝は武家の血を引く家に生まれたが、寄席芸人となった父に引かれるようにして噺家になる。真打ちにはなったものの、なかなかトリを務めさせてもらえない。客が、若い噺家が師匠の真似をしても華がないとくさしているのを聞き、自分のことではないかと思い悩む。自分も知らぬ間に圓生の声色やしぐさを真似ていたからだ。
思案した末に、道具や鳴り物を使って芝居仕立てにすることを思いついた。ようやくトリの声がかかるようになった頃、師匠が仲入り前に出てくれることに。ところが、圓生は高座に上がると「ただ今鶏声ケ窪と呼ばれまする所は……」と話し始めた。圓朝は耳を疑った。これは自分がこれからやろうとしている「累草紙」の出だしではないか。
危機を乗り越えて自分の落語をつくり上げ、名人となった圓朝の一代記。
(中央公論新社 1800円+税)
「忠義に死す 島津豊久」近衛龍春著
島津豊久は島津家当主義久の弟、家久の長男だった。家久は側室の子であったため一段低い扱いをされ、戦場では一番厳しい地を受け持たされた。
慶長5年、関ケ原の戦いで西軍についた島津は、小早川秀秋の裏切りなどで窮地に追い込まれた。豊久の伯父、惟新は老武者のため伊吹山は越えられないと観念して、討ち死にを決意するが、豊久は、惟新が討ち死にしては薩摩が徳川の餌食になると反対した。
豊久の説得で惟新は薩摩への帰国を目指す。惟新を逃がすため、豊久は戦場に踏みとどまり、筒井勢に立ち向かって敵陣突破を狙う。「捨て奸」という、しんがり軍が玉砕して大将を逃がす島津の戦法により、惟新は無事薩摩にたどり着いた。家康は島津攻めを断念し、島津は明治維新まで生き延びる。
身を捨てて島津を救った豊久の生きざまを描く。
(KADOKAWA 1800円+税)