「『細雪』とその時代」川本三郎氏

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 文豪・谷崎潤一郎が戦時下に書き続けた「細雪」。大阪・船場の旧家の4姉妹を主人公に、昭和11年から16年まで足かけ6年の暮らしが描かれた物語である。本書では、この不朽の大河小説を子細に読み解き、4姉妹が生きた時代背景や阪神間の文化、地理、事件そして小市民の生活様式などを徹底分析。当時の写真や地図などの資料も提示しながら、その世界観を解説している。

「文芸評論の楽しさは、細かい“註”をつけて隅々にまで光を当てていくことにある。文芸評論というと表現がどうのこうのと理屈っぽくなりがちですが、そういう意味で本書は小難しさはなく具体的で、物語を再読するのに役立ててもらいやすいはずです」

細雪」は幾度も映画化、舞台化がされてきた。一方で、谷崎作品はこれまで数多く論じられてきたものの、「細雪」だけについて論じられた本はほとんどなかったという。

「映画や舞台になったからこそ、学者の世界では“大衆文学”と軽く見られているところがあるんです。林芙美子も、森光子による舞台『放浪記』があまりにも有名になったことで、大衆小説作家と揶揄されたこともある。しかし、私はこういう作品にこそ、その時代の人々の真の姿が描かれていると思うんです」

細雪」というと、古き良き日本の美が描かれているイメージが強いかもしれない。しかし本書を読むとそれだけではなく、モダニズム精神にあふれた当時の阪神間のありようが見えてくる。例えば、イルミネーションに飾られた船が埠頭を離れてゆく姿を見た四女の妙子はこう言う。「まあ、綺麗な。百貨店が動き出したみたい」。豪華客船を百貨店になぞらえる妙子は、普段から百貨店を身近なものとして慣れ親しんでいることがうかがえるわけだ。姉妹は映画好きでハイカラ好きらしく、見るのはたいてい洋画。「2日置きぐらいに連れ立って神戸へ出て~どうかすれば日に2つも見て歩いた」とも描かれている。さらに次女幸子の夫貞之助は、ライカを持ちゴルフをたしなんでいる。

「思い出して欲しいのが、物語の時代背景です。言うまでもなく、昭和12年には日中戦争が始まり、昭和16年には太平洋戦争が勃発。暗い冬の時代として、小説に描かれるのも政治家か軍人、庶民は病気や貧困に苦しむといった具合になりがちでしょう」

 しかし「細雪」では、あからさまに戦争を描くことはなく、たおやかな女性たちの日々に着目し寄り添う。この物語は、平和な暮らしへの挽歌でもあり、女性の優しさや美しさを愛し続けた谷崎ならではの作品であると本書は解説している。

「さまざまな資料をもとに『細雪』のあらゆる場面に“註”をつけていくと、この時代でも人々の生活はそれなりに楽しく、不幸一色などではなかったことも見えてきます。鬼畜米英と叫んだ日本人が敗戦後すぐに欧米の文化を受け入れたのも、戦前に豊かなモダニズム文化を体験していたからと捉えることもできるわけです」

 昭和13年の阪神大水害や、コメディーリリーフ的存在である女中の“お春どん”など、これまでの文芸評論にはなかった着眼点で「細雪」の世界をひもとく本書。結婚のために東京へ向かう三女の雪子が、列車の中で酷い下痢に襲われるというあまりにも有名なラストは何を暗示するのか。ステイホームのこの時期、「細雪」を未読の人は本書と首っ引きで、また既読の人は本書を手に取り、改めてその世界観を堪能してみては。

(中央公論新社 2400円+税)

▽かわもと・さぶろう 1944年、東京都生まれ。東京大学法学部卒業。「週刊朝日」「朝日ジャーナル」の記者を経て91年に「大正幻影」でサントリー学芸賞、96年「荷風と東京」で読売文学賞受賞。「林芙美子の昭和」「白秋望景」「『男はつらいよ』を旅する」「老いの荷風」など著書多数。

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