ドロ沼から一転、都倉俊一とアッサリ離婚した大信田礼子
それから4年後、都倉からプロポーズされた大信田は最初、躊躇(ちゅうちょ)していた。理由は江夏との破局のトラウマだけではなかった。
「音楽界の貴公子と呼ばれていた都倉は女性にモテた。手帳に女の電話番号がいっぱい書いてあるからイヤだと大信田が結婚を断ると、都倉はその場で手帳を破って暖炉に投げ入れた。それに感激して思わずOKしたというんです」(芸能記者)
結婚して芸能界を引退した大信田だったが、間もなく後悔し始める。都倉が女にモテるというのが原因ではなかった。
「お坊ちゃんの都倉は人の気持ちの機微がわからず、相手が傷つくことを平気で口にして亀裂が深まっていった」(同)
76年夏、大信田の知り合いが自宅に遊びに来た時のことだった。帰り際に、都倉はその女性に向かって「もう二度と来ないで」と言ったのだ。自宅では大信田と2人だけでいたいという本音をそのまま漏らしてしまったのである。
そうしたことが重なり77年9月末、大信田はついに渋谷の自宅を飛び出した。都倉はまだ修復がきくと思っていたが、大信田の決意は変わらなかった。双方が弁護士を立て、離婚に向けた話し合いがスタートした。