新藤兼人・乙羽信子 出会って27年目のゴールイン
<1978年1月>
「乙羽信子さんとの婚姻届を今月末に出します」
1月11日、近代映画協会の新年会で新藤兼人はこう宣言した。新藤65歳、乙羽53歳。2人が出会って27年目のことだった。
51年に新藤が初めて監督として臨んだ「愛妻物語」のシナリオを読んだ乙羽は自分もぜひ出たいと大映に申し出た。宝塚歌劇団から大映入りしたのが50年。会社は乙羽に“100万ドルのエクボ”というキャッチフレーズをつけ、大々的に売り出していた。お嬢さまタレントに人妻をやらせるわけにはいかないと会社側は出演に猛反対した。しかし、乙羽は「どうしても出たい」の一点張り。最後は永田雅一社長が「勝手にしろ」と折れた。「愛妻物語」のヒロインのモデルは新藤の最初の妻・久慈孝子。無名のシナリオライターだった新藤がスクリプター(記録係)の久慈と結婚したのは39年。夫を陰ながら支えていたが、わずか4年後の43年、結核のため27歳でこの世を去った。この久慈を乙羽が熱演。映画は大ヒットした。
翌年、新藤は再び乙羽を主演に監督第2作「原爆の子」を撮った。もともとは大映の企画だったが、内容の深刻さを嫌った会社が手を引き、自主製作を余儀なくされた。乙羽は大映を退社し、新藤が主宰する近代映画協会の同人となった。2人が男と女の関係になったのはこの頃だった。