45歳コンビTOKYO COOL 四半世紀に及ぶ下積み時代を語る
カンカン 福岡に吉本の劇場ができる時のオーディションライブに出てみたら優勝して賞金20万円が入り、僕はその勢いで上京したんです。そこから23年間、苦労ばかり。最初はピン芸人で浅井企画に入りました。
前すすむ 僕も浅井企画に入ったので相方の存在は知ってました。関西から上京した者同士で仲よくなったけど、組むまで15年くらいかかった。
カンカン 浅井企画を辞めてから「GOBUGOBU」という5人組を結成したらメンバーの1人がデキ婚して解散。他の1人と「赤いタンバリン」を組んだ後、またピン芸人に戻り、地元の先輩とまた新たなコンビを組み、ある先輩に「ソニー・ミュージックアーティスツがお笑い始めるらしい」と誘われ、入ったのが15年前。事務所のコウメ太夫さんが爆売れ中で、僕は全国の営業で付き添い役と専属MC。当時コウメさんはネタが3分しかできなかったからゲームコーナーのMCとか。それ以降、営業を見てくれた業界人から地方の番組やイベントの仕事を入れてもらえて。でも、無名だから現場の扱いはひどかった。ショッピングモールのイベントの司会では控室がなく、モールの駐車場1台分にパイプイスとカラーコーンが置かれ、そこで本番まで待ち。トイレに行った間にモールに来たお客の車が止まってた。