<8>親子2代の大関 スポーツ記者も芸能記者も集まってすごい数に…
親父は相撲には厳しい人でした。横綱になれなかったけど、憧れは人一倍強かったですから。横綱寸前までいったのに、大関が酒好きで飲んで粗相をしたらいけないというので控えたら、体が冷えて神経痛で休場することになっちゃった。
当時は今と違って月給制じゃなかったから、休場したらお金が一切入ってこなくて生活できない。それで50年の1月場所で辞めてチョンマゲを切るしかなくなった。悔しかったでしょうね。
ところが、力士を辞めたので、おふくろに「飲んだら」と言われて飲んだら、神経痛が治っちゃった(笑い)。当時二所ノ関部屋には関脇だった力道山がいました。力道山は親方とケンカして部屋を出ていたから、体がよくなった親父と、2人を戻そうと相撲協会が働きかけたけど、力士会にダメと言われ、親父は三保ケ関部屋を継ぐことになったんです。
当時の三保ケ関部屋は関取が少ない貧乏部屋だったので、おふくろは質屋通いをしたり、苦労していたね。親父は親父で横綱になれなかった悔しさから鬱憤がたまって、飲んで帰ってきては、よくちゃぶ台をひっくり返したりしていました。