コンクラーベの裏側を暴いた『教皇選挙』 作品のメッセージをどう解釈するかでその人の知性が分かる
戦争映画のようなスペクタクル作品
投票が何度も繰り返される。ベルガー監督は観客が枢機卿たちの姿と名前を理解しやすいよう、候補者の名前が読み上げられるたびに人物をアップで撮影していく。コンクラーベ中の候補者の隔離は徹底している。外界と遮断するために電話を外し、関係者のスマホを取り上げ、建物の窓を開閉不能にする場面には「そこまでやるか」と半ば呆れてしまう。
教皇は容易に決まらない。1回目で多数を取った者が有利を維持できるわけではなく、2回、3回と回を重ねるごとに票がばらけ、結果が移り変わるのだから、まるで自民党の総裁選のようだ。それもそのはず、本作の原作(「Conclave」)を書いたロバート・ハリスは2013年にコンクラーベに関するテレビ番組を見て、彼ら枢機卿たちが政治家のように思えたことから取材を始めたと明かしている。宗教も政治も主義主張や権力欲が絡むと事態は予測不能の方向に突っ走り、数の勝負となっていくわけだ。そうした人間どもの「根比べ」をシスティーナ礼拝堂の天井画が見下ろしている。
爺さんと婆さんしか登場しない地味なストーリーの中で枢機卿たちが互いの腹の内を探り合い、足を引っ張り合い、利益を求めて何事かを画策する。そうした人間臭いドラマをカメラは露出を抑えたダークな色調で捉える。重低音を駆使した音楽と画面の暗さが観客に緊張感を与え続ける。ドアの締まる音、回廊に響く足音、人々の息遣いが、絵画のように精緻な映像から飛び出して客席に迫ってくる。
筆者は戦争映画のようなスペクタクル作品は劇場で見るべきだと思っているが、この「教皇選挙」も音響の良い大型スクリーンで見て欲しい。男たちの語り合いが中心のドラマだが、家庭の液晶テレビでは再現できない迫力がみなぎっている。