東京で交錯していた政府、孫文、日本人志士による駆け引きと思惑

日本外交が侵略的色彩の濃い「二十一箇条要求」の、その第5号を省いて最後通牒の形で袁世凱政府にこの要求を突きつけたのは、5月7日である(大正4年)。袁世凱政府はひとまずこれを受け入れた。2日後の9日であった。
日本の強引な外交手法は、アメリカ、イギリスなどに警戒されていく…
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