4代目山口組組長襲撃犯が逮捕…一和会会長に「見捨てられた」若頭が残した手紙
当時36歳の若さで「2代目山広組」のナンバー2であり、傘下の後藤組組長だった後藤容疑者は襲撃部隊を結成し、実行役4人を選定した。指示を受けたヒットマンは竹中組長の愛人が住むマンションの1階エレベーター付近で竹中組長、中山勝正若頭、南力若中に次々発砲し、3人全員を射殺した。
事件後、後藤組の若頭が4代目山口組に拉致監禁され、組の解散を迫られると、後藤容疑者は子分を助けるため、山口組に詫び状を送付し、警察に解散届を提出。子分の解放と引き換えに自首する約束をしていたが、そのまま行方をくらましていた。
一和会は一時、山口組を約1000人上回る6000人の勢力を誇っていたが、組長が次々引退に追い込まれ、組員数は激減。89年3月、山本広会長が自らの引退と同会の解散を届け出、山口組本部を訪れて謝罪。「山一抗争」は終結した。
暴力団に詳しいノンフィクション作家の溝口敦氏が事件を振り返る。
■39年間に及んだ「逃亡生活」
「事件後、プッツリと後藤の行方が途絶え、山一抗争が進む中、存在自体が忘れられていった。噂話も聞きませんでした。後藤は<山広に見捨てられた><いくら連絡を取ろうとしても取れない。自分は絶望した>という手紙を残していなくなった。誹謗中傷するほど余裕があったということは、心の中ではカタがついていたのかもしれない。恐らく逃走資金はもらっていません。ツテなどを頼り、生活費を得ていたのでしょう」
自分を見捨てた親分が敵に頭を下げ、一和会は全面敗北。39年間、どんな思いを抱き、「逃亡生活」を送っていたのか。