ユーゴ代表時代を知る日本人が語る「命懸けのプレー」
「日本の選手にはもっと伸び伸びとプレーして欲しかったですね」というのは、旧ユーゴスラビアのナショナルスキーチームのコーチだった平山昌弘氏だ。平山氏は86年から5年間、ボスニアに滞在。ユーゴがベスト8まで進んだ90年W杯をボスニアで観戦した。
「マラドーナのいるアルゼンチンとの準々決勝はPK戦になり、最初に蹴ったストイコビッチが外して負けた。あのPKはみんな蹴りたがらなかった。もしも失敗すると、母国に戻った時に殺されると思ったからです。ユーゴは80年にチトー大統領が死去し、民族主義が台頭。あの時はすでに民族や地域間の対立が激しくなっていた。それぞれ宗教が異なるスロベニア、セルビア、アルバニア、ボスニア人などが互いにいがみ合い、経済力のないボスニア人はスロベニア人から『ボサンツ』などと呼ばれ、蔑まれていた。国民がひとつになってW杯の代表チームを応援するという雰囲気ではなかった。その後は激しい内戦、ユーゴ解体に突き進んだ。そんな背景からW杯の代表選手たちは、ミスをしようものなら他の民族に殺されると身の危険を感じながらプレーしていたのです。日本は平和だし、代表選手はサッカーだけに集中できる。怖いものなどないのですから、1、2戦目はもっと思い切ったプレーを見たかった」