長嶋の横浜大洋監督就任を潰したのは財界の大物だった
第三者とは長嶋の取り巻きのマスコミ関係者などで、何とかユニホームを着せようと動いていた。
長嶋も「愛の手を差しのべてくれた」と大洋側との接触を認めたが、結局、「もう少し充電期間を置きたい」と“2浪宣言”、監督就任の話は流れてしまった。
代わりに監督に就任したのが関根潤三氏(当時評論家)。75年の長嶋巨人1年目にヘッドコーチとして入閣するなど、2人は信頼し合う間柄だった。関根監督は、「長嶋監督が実現したら交代する」という“つなぎ役”を承知していた。その間、大洋は改めて長嶋招聘を画策。それが3年後の84年に再浮上してきたのである。
この年も大洋は最下位に低迷。長嶋の浪人生活も4年目に入っていた。48歳と働き盛りに加えて、巨人は王監督が就任して1年目。長期政権になるのは確実視されていた。「長嶋巨人監督」が再び実現する可能性はほとんどなかった。他球団で指揮を執る条件は整っていたのである。
「関根さんから『ミスターらしい(監督就任)会見をやりたいんだよ』と相談も受けました。それで都内のホテルで就任記者会見を行って、その足で成田空港に向かい、米国へ大リーグ視察や外国人選手を獲得しに行くことにしたらどうか、と提案しました。関根さんも『それはいいね』とすっかり乗り気になりました。長嶋さんが巨人以外のユニホームを着ることになったら、その日から大騒ぎになります。冷却期間を置く狙いもありました」(菅谷氏)