日ハム吉田輝星の原点 「投球フォーム」に託した父の願い
正樹さんが投げ方にこだわったのは、肩の故障に苦しんだ高校時代の経験からだ。
1984年、金足農は夏の甲子園で初出場ながらベスト4に進出。準決勝でPL学園(大阪)との激闘の末に敗れたものの、当時、小学生だった正樹さんの脳裏に「金農フィーバー」は強烈な印象として焼き付いた。中学時代は軟式野球部で投手を務め、憧れの金足農に進学した。
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エースを目指していた正樹さんは2年生になる直前の春、試合中に肩に痛みを感じた。その後も試合で投げるたびに痛みが襲った。中学2年のときに一度、肩を痛めたことが影響したようだ。
正樹さんはしかし、当時の嶋崎久美監督には一度も「肩が痛い」とは言わなかった。というより、言えなかった。何より試合に出たかった。内緒で週に一度、病院に通って電気治療を施し、湿布薬を貼りながら投手を続けた。夏の県大会では背番号「10」をつけたが、2年時はベンチ入りできず、3年時は1イニングを投げただけだった。2年連続で決勝で敗れ、甲子園出場の夢はかなわなかった。