横綱で“皆勤負け越し”経験 芝田山親方は稀勢の里どう見る
横綱とは孤独で苦しいもの。それでも…
――芝田山親方は1989年の秋場所で7勝8敗。引退はせずに現役を続けています。
負け越しが決まったのは7勝7敗で迎えた千秋楽。さすがにその前に負け越し決定なら、休場か引退ですよ。今は負けが先行した時点で休場する横綱が多いですね。私も休場はありましたが、基本的に休まないことを前提にやっていた。稽古も巡業も本場所も、です。私は相撲協会の看板として、出られるときは出なくてはいけないと思っていた。中には「横綱はみっともない相撲を取れない」という理由で休む人もいる。それは人それぞれの考え方があっていいと思う。でも、師匠(放駒親方、元大関魁傑)は休むことを前提には考えない人だったし、少なくとも、私から師匠に「休ませてください」と言ったことは一度もありません。
――負け越しが決まったときは、引退を考えたのですか。
千秋楽の夜、師匠と一緒に二子山理事長に進退伺を提出しました。私自身、腹はくくっていましたよ。横綱として負け越した以上、「終了」と言われても仕方がない。でも、理事長は「(27歳と)まだ若いんだから、もう一度出直してみろ」と言ってくれた。その一言でクビの皮をつないでもらったんです。
――それでも現役を続けたことは、勇気が要ることではありませんでしたか。
それは皆さんが考えること。降格がない横綱は、常に自分との闘いです。横綱は神様と言われることもありますが、しょせんは人間なんです。風邪もひけばケガもする。ならば、自然体でいいじゃないか、というのが私の考え。もちろん、賛否はあるでしょう。私も現役時代は「給料泥棒」とか「格下げすべきだ」とか、いろいろ言われたものです。減給や降格で済むのなら、一体どれだけ楽か。それができないのが横綱なんです。私も休場が続いたとき、宗教の勧誘が来るなど、世の中、人の弱みに付け込む人が多い。でも、結局、信じられるのは自分だけ。となれば、稽古しかない。自分の中にあるつらいものを解決するためには、稽古しかないんです。
――そんな芝田山親方は91年の名古屋場所(7月)で引退。28歳10カ月という年齢もあって、「まだできた」という声もあったのではないですか。
それでも昔の力士は30歳前後で引退が多かったですからね。名古屋場所初日は曙に負けて、中日で安芸ノ島に黒星。4勝4敗の時点で引退を決意しました。体力的な問題ではありません。今場所負けた相手は毎場所当たる可能性がある以上、次にやっても、このままでは「やっと勝利」という余裕のない取り口にしかならないと思い、引退はしたくなかったですが、明日につながらないような相撲では横綱としての責任は果たせない。それで引退を決意しました。
■カーテンを閉め切った師匠の部屋で
――師匠はどんな反応でしたか。
なかなか報告できなかったのですが……8日目の夜、カーテンを閉め切った師匠の部屋で、師匠から「どうなんだ?」と。「おまえはそれだけ力があるのだから、簡単に負ける相撲取りじゃない」と言われましたが、「土俵に上がって、自分が何をやっているかよくわかりません」と……。実際、そんな状態だったんです。体力は全然問題ない。すると師匠は「自分で自分が何をやってるのかわからない状態なら、どうしようもないな……であれば仕方ないな……」と。引退を決め、師匠に「さわやかに会見しよう」とひとこと言われたのが印象的でした。
――横綱は力もそうですが、精神面はそれ以上に重要ということですね。
力だけが相撲ではありません。土俵の上で、精神状態がどれだけ重要か。目には見えない「気」というものが、大きく左右するんです。
――稀勢の里も、相当追い込まれている。
今が一番苦しい時期でしょう。これまでは温かい目で見てくれたファンからも、厳しい見方をされている。稽古不足もある。でも、何とか乗り越えてほしい。稀勢の里がこの先、復活できるかどうかはわかりません。何かのきっかけで変われる場合もあるし、かといって開き直りなんてそう簡単にできるものでもない。親身にアドバイスしてくれる人も、結局は他人事ですから。横綱とは孤独で苦しいもの。ただ、それでも悔いを残さないように稽古をして、「これが横綱稀勢の里だ!」という相撲を見せてほしい。それが芝田山の願いです。
(聞き手=阿川大/日刊ゲンダイ)
▽本名は青木康。1962年、北海道河西郡芽室町出身。第62代横綱大乃国。中学校卒業後に魁傑の内弟子として花籠部屋に入門。81年、師匠の独立とともに放駒部屋に移籍する。87年、横綱に昇進し、在位23場所。優勝2回。91年7月場所で引退し、芝田山親方として後進の育成に努める。