<5>主将を後輩に…「これでダメならピッチを去る」と覚悟
そして19年は自ら常勝軍団の主将に就任。序盤こそ連続出場していたものの、またも足の状態が悪化して5カ月間もの離脱を強いられる。
冒頭の松本山雅戦は9月の戦列復帰からリーグ3試合目だったが、本来の切れ味鋭いプレーが影を潜め、「あんなにいい選手がかわいそう」という声が対戦相手からも出たほど。貪欲に勝利を求める鹿島サポーターからも不安視する声が出始め、本人もいたたまれない気持ちだったに違いない。
今季、主将を三竿健斗に託した時点で「これでダメならピッチを去る」と覚悟を決めていたのだろう。
内田は、そういう弱気を人前で見せないタイプの人間だ。松本山雅戦の際も「ホントに俺がやんなきゃいけない、個人で」と自らを奮い立たせた。が、同年の鹿島は無冠で終了。新国立競技場のこけら落としとなった20年元日の天皇杯決勝で神戸に苦杯を喫した後も「今季もケガをして終わりましたね」と淡々とした様子で報道陣に対応した。
■ご意見番
ただ、退任した大岩監督に対しては「剛さんには17歳で鹿島に入ってから面倒見てもらったのに主将として一冠も取らせてあげられなかった」と申し訳なさそうに話した。