制球とスピード、相容れない2つを両立させて球界の常識を覆した思考回路
【大谷翔平「二刀流の血脈」父の教えと投打のスケールアップ編】#2からつづく。
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苦労したのは投手としてだった。
日本ハム時代に日本人選手最速となる165キロをマークしたように球は速い。しかし、制球がいまひとつだった。
メジャー1年目の18年は序盤に100マイル(161キロ)をマークしたものの、6月に右肘内側側副靱帯を損傷して故障者リスト入り。その後、新たな損傷も見つかり、10月にトミー・ジョン手術を受けた。
MLB初の「10登板、20本塁打、10盗塁」をマークして、かのベーブ・ルース以来となる二刀流選手として新人王を獲得したとはいえ、翌19年は投手として全休。20年も2試合に登板しただけだった。
が、投手として復帰して以降、投球フォームは劇的に変化した。テイクバックをかなりコンパクトにしたのは、手術した右肘に負担のかからない投げ方を模索したからだろう。右肘に移植した靱帯が年を追うごとに馴染むようになったことに加え、これまで以上にさまざまなトレーニングを積んだことによって制球も改善されていく。21年は130回3分の1で54だった与四死球数が、22年は166回で46に減った。