「原発事故と『食』」五十嵐泰正氏
社会学者の著者が、「食風評」が起こる市場のメカニズムや消費者心理、マーケティングなど複雑に絡み合う風評の構造をさまざまなデータや学術的見解を用いて俯瞰した論考集だ。
「そもそも風評というのは、科学的には安全であるにもかかわらず危険視される現象を言い、一般的にはいずれ収束していくものです。ところが福島の場合は、当てはまらなかった。3・11以降、買い控えや忌避行動はいつまでも収まらず、明らかに風評被害と断言できる領域が広まっています。放射能という大きな問題があるにせよ、これほどまで風評が長引いたのはなぜなのか。根本にあるのは、行政に対する不信感ですね」
事故後の放射線リスクを心配する声が高かったのは当然としても、米は2012年産から全袋全量検査を行い、そのリスクは他県よりも低く、野菜も基準値以下が確認されている。消費者庁の最新調査では、13%が「福島県産の購入をためらう」だが潜在的にはもっと多い可能性があると著者は言う。
そんな中、今年3月に森友学園問題に絡む文書改ざんが発覚。その直後にツイッターに「こんな文書が改ざんされる国で、福島の検査なんか信用できるか」というコメントが書きこまれた。
「まさに、これですよ。事故後の情報が混乱していたとき、世間では、政府関係の主流科学者と科学的に疑問符のつく話をする非主流的専門家とが意見を二分していました。しかし、事故を起こしたのは政府であり、そもそも信頼が揺らいでいた。安全宣言をしてもデータには情報操作があるのではないかとの不信感が払拭されなかったんです。今から思えば、あれは、主流派と非主流派のどちらが消費者の信頼を勝ち取れるかというゲームのようなもの。政府はそのゲームに負けたんです」
こうして最初に持たれた悪いイメージがうっすらと固定化したまま、忘れられていく。著者はこれを“悪い風化”と呼ぶ。
「政府に対する不信の他にも、さまざまな要素が絡み合っています。たとえば原発の名前。県の名前がついているために、どうしても関連して思い出してしまう。もし、名前が違っていたらここまで福島と結びつかず、風評被害は長引かなかったかもしれません。さらに、消費者の情報がアップデートされないことも要因なのですが、これには流通システムと深いかかわりがあります」
事故が起こったとき、流通業者や小売店の担当者が福島県産を避けるのではないかと、いわば消費者感情を忖度して仕入れを止めたのだ。これが可能だったのは、福島県の作目が、キュウリ、トマト、米など日常の食卓を支える汎用的品目だったこと。つまり、他県と代替が利く品目だった。
しかし、福島県産しか手に入らない夏のキュウリは事故後も東京市場における占有率は落ちてはいない。
「福島県産品の安全性が認められたからといって、一度失ったスーパーの棚を取り戻すのは簡単ではありません。消費者は棚になければ手に取りません。選択肢が他にあったり、消費者と福島とが地理的にも心理的にも遠ければ遠いほど関心が薄くなり、安全情報は耳を素通りしていく。市場や流通過程で発生した風評被害は、消費者の接触機会が減ることで続いていくんです」
風評被害は決して福島だけの問題ではない。我々にも大いに関係していると著者は言う。
「差別やまた異なる放射能リスク判断をする人に対する揶揄による、社会の分断です。科学者は原子力は課題はあるが、制御できると言います。しかし、政府と国民、国民同士の信頼が薄い今の社会で扱える技術ではない気がしますね」
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▽いがらし・やすまさ 1974年、千葉県柏市生まれ。筑波大学大学院人文社会系准教授。専門は都市社会学、国際移動論。現在も柏市に暮らし、音楽や手作り市などのイベントを行う団体「ストリート・ブレイカーズ」の代表を務める。編著に「みんなで決めた『安心』のかたち」、共編著「よくわかる都市社会学」など。