友井羊(作家)
3月×日 最近取材と趣味を兼ね、東京の老舗の飲食店を巡っている。明治や大正、店によっては江戸から続く味を今も楽しめるのは幸福なことである。そこで森まゆみ著「東京老舗ごはん」(ポプラ社 620円)を片手に、明治28年から続く洋食の名店、銀座の煉瓦亭を訪れた。
レトロな外観と品のある店内に、御馳走をいただくという期待が高まる。元祖というポークカツレツやオムライスを食べたが、特にハヤシライスが絶品だった。デミグラスソースの味に奥行きがあり、長く旨味の余韻に浸れるのだ。古くから続く店の味には揺るぎない芯の強さがあるように感じられる。この味をいつまでも食べられるよう、末永く続いてほしいと切に願うのであった。
銀座といえば以前、同業者の青柳碧人氏に文壇バーに連れていってもらったことがある。私は牧羊犬に睨まれた羊のように怯えていたが、錚々たる作家たちが通った由緒ある店の空気を味わえたことは貴重な経験となった。そんな青柳氏の新刊「家庭教師は知っている」(集英社 620円)を読了。家庭教師派遣業の会社に勤める主人公が、家庭教師の派遣先で起きる奇妙な出来事に相対していく連作ミステリーだ。
祖母が3人いる家や空の鳥籠が無数にある家など、家庭ごとに提示される不可解な状況は奇妙な据わりの悪さがある。それらによって物語に引き込まれた先に、社会問題を内包した鮮やかな真相が待ち構えている。
軽妙洒脱な物語を多く上梓する青柳氏だが、今作は全編に不穏な空気が漂う。各話は「虐待かもしれない」という疑惑から始まることもあって読み心地は重い。ただし今作にも氏の作品に通底する虐げられる者への優しさが溢れているため、読み終えた後は不思議と胸が温まる。とても充実した読書体験だった。
青柳氏は奇遇にも生まれ年が近い。同世代に魅力的な作品を生み出す小説家がいることは大きな刺激となる。私も負けないようにと気を引き締めつつ、今度は鮨の老舗にでも足を向けようかと思いを巡らせるのであった。