中山千夏 結婚から7年後の「なんとなく離婚」
仕事で知り合って飲んだ時、酔った佐藤がデートを申し込んだ。千夏は「母がうるさいから無理。結婚すれば別だけど」と答え、そのままゴールイン。ほとんど交際期間もなかった。
その後、千夏はウーマンリブ運動にのめり込んだが、佐藤は理解を示した。77年、千夏が革新自由連合の発足に尽力する際には佐藤も参加。はた目にはうまくいっているように見えた。それなのになぜ破局したのか。
「2つの理由が取り沙汰された。ひとつは子どもが死産して以降、男女の関係が薄れていったこと。もうひとつは矢崎泰久氏との関係です」(芸能記者)
千夏が妊娠したのは73年。11月末が予定日だったが、6月に受けた卵巣嚢腫(のうしゅ)の摘出手術が影響して早産になった。9月6日に生まれた女児はすでに息がなかった。ただし、これを離婚の原因とするのは早計だろう。もともと男女の仲というより生活全般のパートナーといった感じだった。
関係が疑われたフリージャーナリストの矢崎氏とは「狭間組」なるユニットを組んで共同で著作活動をしていた。千夏は離婚後の手記で「(矢崎氏と)ヤッタかヤラヌかなどという問いは馬鹿馬鹿しい」と述べている。これもまた、男女を超えた仲だということなのだろう。「ヤッタ証拠なら恥知らずに写真を撮ったりもできようが、ヤラヌ証拠となると打つ手がない」とも語っている。