作家・竹中功さん 河内家菊水丸と巡ったイラクの思い出
ショックを受けた空爆の映像
猪木さんの本当の目的は、200人くらいいた現地の日本人の人質奪回だと旅の途中に聞かされました。僕と菊水丸と彼のバンドメンバーは不安になったけど、「猪木さんと一緒なら死にはせんやろ」と僕が言って(笑い)。バンコク、ドバイ経由で、写真はヨルダンの首都アンマンの空港。ここからバグダッドに向かう前だから、表情は少し不安そう。集まったお客さんは現地の人たちばかり。アラビア語しかわからない人の前で、菊水丸とメンバーが新日本の選手紹介の音頭を日本語で披露。菊水丸は扇子にアラビア語を書いておいて、「こんにちは!」「日本から来ました!」「いただきます!」と単純なアラビア語を要所に入れて笑わせてました。
ステージはウケて1週間の滞在は問題なかったけど、帰国して42日後に湾岸戦争が開戦。多国籍軍がイラクを空爆し始めた。滞在中、お父さんとお母さんが子供と手をつなぎ、バスケットを持って公園や遊園地に行く、どこの国にもあるほのぼのした光景があったんですよ。その数十日後、日本でテレビを見ると「ここは誰も住んでいない地域」と空爆する模様が映る。「ホンマに人、死んでないんか」と思いました。そんなわけないですよね。僕は公園でサンドイッチを食べてた親子が今も忘れられないです。
■菊水丸は「カーキン音頭」が大ヒット
バグダッドから帰ったタイミングで、菊水丸がブレーク。当時人気の求人誌「フロム・エー」のCMソング「カーキン音頭」が大ヒットして、一気に全国区になっていきました。
ワールドミュージックの大会にも呼んでもらったり、ディック・リーさんとCDを作ったり、彼の活動が世界的になり、エジプト、ギリシャ、イタリア、キューバ……一緒に回りました。
猪木さんから「北朝鮮に物資を運んで、スポーツと音楽の祭典やるのでまた音頭をやってほしい」と言われていましたし。さまざまな国でのネタがいろんな歌になったから、菊水丸にとってはいい体験だったと思います。
僕は今、マネジャーを辞めてラジオでしゃべったり、本を書いたりしてます。吉本時代のみならず、バグダッドはじめ、外国で見たことが生きてると思います。
(聞き手=松野大介)
▽たけなか・いさお 1959年2月、大阪市出身。81年に吉本興業入社。吉本総合芸能学院(NSC)を設立、映画「ナビィの恋」「無問題」などプロデュース。タレントの謝罪会見の仕切りで名を上げ、15年に退社後、「よい謝罪 仕事の危機を乗り切るための謝る技術」(日経BP社)刊行。近著に「謝罪力」(同前)。文化放送「竹中功のアロハな気分」(日曜)放送中。