川崎麻世さん 故・ジャニー喜多川さんがくれた希望の一言
京都で生まれ、大阪・枚方で育った川崎麻世さん(56)。先ごろ他界したジャニー喜多川さんに見いだされ、俳優として世界のステージで活躍するキッカケになった一枚の写真がこれ。その後、生後まもなく生き別れた父親とも会うことができた。
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京都で生まれてわずか1歳の時、やむを得ない家庭の事情で両親が離婚。その後は枚方市で事業を展開していた母方の祖父母の元に身を寄せ、母1人子1人で育った。後を継ぐ男子は1人だったこともあり、ゆくゆくは事業を継ぐことを期待されたという。
「芸能界入りはたまたま応募した読売テレビの当時のモノマネの番組『パクパクコンテスト』に出演したことです。父が俳優だったこともあり、母は芸能界入りに反対だったのですが、番組ですごい反響をいただいて。司会者だった笑福亭鶴光さんが『ファンレターが1000通を超えたら番組のレギュラーにする』と言ったら、予想外の1万通も来ちゃったんです」
当時は西城秀樹、郷ひろみ、野口五郎の新ご三家の時代。衣装も髪形も秀樹そっくり。
「僕は秀樹さんのモノマネをやっていました。この衣装は『ジャガー』という曲のもの。秀樹さんを意識して母親と一緒に作りました。スーパーの婦人服売り場でゴム入りのパンツとシャツを買ってきて、上下縫い合わせてジャンプスーツにしたんです。家庭科の授業で習った刺しゅうが得意だったので、金の糸とスパンコールでクモの巣のように縫ったんです」
■生きるバネは「挫折は人を強くする」の一言
この人気がジャニーさんの目に留まるのに時間はかからなかった。
「人を介して麻布の事務所に来てほしいということで行ったら『待ってたよ』と突然ジャニーさんがいらした。ポケットから僕の雑誌の切り抜きを出して『YOUのこと見ているよ。今から合宿所に来ないか』って言われ、すぐそばにあった合宿所に行ったら『YOU、明日、日比谷の野外音楽堂でジャニーズのコンサートがあるから出ちゃいなよ』と。その言葉通り、翌日のコンサートに出演していました。13歳の夏休みの出来事です」
14歳でジャニーズ事務所入り。その後「怪人二十面相」「カックラキン大放送!!」などヒット番組のレギュラー出演が決まり、歌手デビューも果たし、アッという間に人気者になった。だが、最優秀新人賞の受賞はかなわず、この時ジャニーさんがかけてくれた言葉が「挫折は人を強くする」。その後、事務所からたのきんトリオらもデビューしたこともあり、事務所の支援のもと、国際的スターを目指して本格的にミュージカルに挑戦し、海外に渡った。その頃、メリー喜多川さんの思い出深いエピソードがあるという。
「ロンドンで勉強中、当時住んでいたアパートに頻繁にメリーさんが段ボール箱を届けてくださったんです。中には日本食やカップ麺とか。『ペヤング ソースやきそば』もあって食べた後は弁当箱に代用していました。ご飯を詰めて梅干しをのせ、レッスンに持参して食べました。うれしかったですね」
そしてミュージカルスターとして世界、日本の舞台で活躍。
「バネになったのはジャニーさんのあのひと言です」