話題作「なぜ君は総理大臣になれないのか」描く僅かな希望
少し驚いた。都内・有楽町のミニシアターに赴くと、半分近く座席が埋まっているではないか。座席は1席ずつ空けてチケットを販売しており、実質的にはほぼ満席といっていい。見に行った作品は「なぜ君は総理大臣になれないのか」。一人の政治家の17年間を追ったドキュメンタリーだ。
十数年に及ぶ日本の政治状況をなかなかに奥深く、鋭い視点から描いている。これが滅法面白い。多くの関心を集めているのは昨年の「新聞記者」同様に、国民のなかに膨れ上がる政治や政治家不信が根っこにあるように思った。
■東大卒→総務省出身なのに官僚批判
映画の中心人物は、香川県高松市に拠を構える政治家・小川淳也。ドキュメンタリーに定評のある本作の大島新監督は、ひょんなことから、小川を追っていくことになる。映画は4年前の2016年から始まり、一気に2003年に移る。03年は東大から総務省(当時は自治省)に入った小川が総務省を辞め、政治を目指した時期。このあたりまでの展開で一際目を引くのは、彼の官僚批判だ。
大臣は一般企業でいえば名誉会長、お飾りみたいなものである。実権を握るのは次官クラスで、それ以上の力を持つのは在籍時代に実力者だったOBたち。昨日と今日、明日が変わることを極端に忌み嫌う。そのような官僚の体質を端的に話す小川は実にまっとうで、正義感あふれる政治家のように見える。その一方で、党利党略に長けた政治的な駆け引きが苦手な様子も随所に現れる。
彼は03年当時、民主党に所属した。衆院初当選は選挙で勝ったのではなく、比例区からの当選だった。よって、党内では発言権が弱い。このことが以降も彼の政治活動を決定的なものにしていく。民主党が政権をとり、再び野党に転落する無様な姿を批判、さらに親分・前原誠司が小池百合子の希望の党になびいていく過程で、悩みに悩んで希望の党からの出馬を余儀なくされる。
その選挙でも僅差で対立候補に敗れ、またも比例区からの復活という屈辱を舐めた。ラスト近くには立憲民主党会派の一員として、国会の質疑で果敢に自民党を責める姿が映る。
少し長めに中身に触れたのは、「なぜ君は総理大臣になれないのか」ではなく、「なぜ日本人は政治を忘れてしまうのか」と、改めて問う意味があると思うからだ。民主党政権時代、民進党の分裂、希望の党の無様な選挙戦。そんなに昔の話ではないのに、かなり以前の政治劇のように見えて仕方がなかった。筆者に限った話ではないだろう。政治の進行スピードは速く、それが政治のダイナミックな面でありつつも恐ろしいところなのだと今さらのように感じ入る。本作の見どころの一つだ。
駆け引き知らずの正義漢 本当に「政治家に向いていない」のか
とはいえ、映画を見終わって一番響いてきたのは全く別のことだった。一人の政治家人生を追っていくなかで浮き彫りになる人間のどうしようもない脱力感、無力感であった。「なぜ君は総理大臣になれないのか」への答えは明白だ。魑魅魍魎、複雑怪奇な政治の世界で、小川淳也のような駆け引き知らずの正義漢は荒波に飲み込まれ、手も足も出なくなってしまう。
彼が倒したいといった小池百合子が会得しているような骨がらみ、政局主導の政治体質など、彼が持ちようもない。誰にでもわかる。そんなことは百も承知の大島監督は小川にカメラを向けていくにつれ、タイトルへの答えを描こうとは思わなくなったのではないか。
監督が、「政治家に向いていない」(この言葉は作品内に何度も出てくる)小川淳也なる男をいつしか愛おしく感じるようにも見えてきた。まっとうさと正義感を併せ持ちながら、なかなか大義を果たせない人間はこの世の中にゴマンといる。だが、複雑怪奇な世界だからこそ、まっとうさ、正義感は排除されてはならない。
さきに脱力感、無力感と書いたが、本当は違うのだ。小川淳也の政治姿勢を脱力感、無力感に落とし込めてはならない。その先にある微かな希望こそ、大島監督は映画にしたかったのではないだろうか。
本作に政治不信、政治家不信への苛烈な憤りを期待した観客は、少し肩透かしを食らうかもしれない。だが、そうではないのだ。観客は、小川淳也の内面に蠢く未完の政治ドグマを自身の怒りに転換すべきではないのか。映画はそれを強く訴えかけているような気がしてならない。
安倍政権寄りの田崎氏も…
蛇足ながら、本作には安倍政権寄りのジャーナリスト・田崎史郎氏が2回登場する。意外な登場の仕方に少々驚くが、田崎さんもまた党派を超えて、裏表のない小川に惹かれてしまったのかもしれない。本作の面白さはまさに複雑怪奇だ。