古関裕而が「史上最悪の作戦」のビルマで体験した恐怖
ところが、ビルマの首都ラングーン(現ヤンゴン)に到着すると、特別報道班員たちの楽観ムードはすぐに吹き飛ぶ。参謀からインパール陥落はまだまだだと聞かされ、そこで初めて日本軍の苦戦を知る。
火野と向井は一足先に現地入りして、古関は陥落後にあとを追いかけることになった。出発する際、火野は古関に「ビルマ派遣軍の歌」の歌詞原稿を託した。ちょうどそのころ、ラングーンではペストが発生。恐怖におびえながらも、古関はなんとか曲を書き上げた。
■ペストにおびえながら曲を書き上げた古関
一方、前線に近づいた火野らはそのありさまを見聞きして愕然とする。制空権をとっくに失っていた日本軍は食料の調達すらままならず、餓死者が続出していたのだ。火野が残した手帳には「前線にダイナマイトを100キロ送ると50キロしかないと報告がくる。兵隊が食うのである」とある。ダイナマイトの原料のニトログリセリンは口に含むと甘い味がするのだ。火野はこうも記している。
「牟田口閣下は毎日粥を二度食っては毎日釣りをしている」