「あなたに小説執筆をつよく勧めたのは藤田だから」小池真理子さんの言葉に胸が塞がりそうになる
現在なら藤田さんの言葉たちの真意もわかる
そのとき点けられた種火は、胸の奥でくすぶりながらも消えていなかったらしい。2013年、作家の白石一文さんが初対面のぼくに向かって発した「あなたは小説を書く人だ」には、そのころ疎遠になっていた藤田さんの声が重なって聞こえた。
脱稿するまではあえて告げるまいと心に決めて執筆に着手した。がしかし、どんなに長引いても3年もあればゴールできると高を括って始めた執筆は、訃報が届いた2020年1月でも迷走をつづけていた。彼の死がもたらした悲しみと自分の不甲斐なさの入りまじった感情が、その後どれほどつよく背中を押してくれたか。初小説『永遠の仮眠』の見本があがったのは、藤田さんが星になってちょうど1年が経った2021年1月のことだった。
現在なら藤田さんの言葉たちの真意もわかる。一編の小説を書くのはそれだけで貴重な人生経験だ。書き下ろし長編ならば尚更。ぼくもその数年間は、実生活の家族とは別にもうひとつ秘密の家庭をもっているような後ろ暗い快感があった。小説を書く醍醐味のひとつは、疚しさを快感に昇華することなんだな。藤田文学の頂点『愛の領分』も大人の疚しさが最大の魅力だったではないか。
瀟洒なご自宅で久しぶりに会う小池真理子は、やはり美しいひとだった。憧れの女性と初めてふたりきりで過ごす時間。終始明るい雰囲気で、思い出話に花が咲く。誰も入ったことのないという故人の仕事場も見せていただいた。
「あなたに小説執筆をつよく勧めたのは藤田だから」の言葉に胸が塞がりそうになる。自分に疚しさはないかという疑問を封じ込めるために、間断なく喋りつづけた。幸せだった。少年時代から〈物語〉に求めてきたすべてがそこにあった。
リビングの巨大な全開口窓の向こうは、あいにくの曇天。赤ワインの抜栓を買って出る。シュポンと心地よい音を立ててコルクは抜けた。
「藤田もいればねー」
明らかにふざけた口調で真理子さんが言う。鼻の奥がツンとして、曇天がにじんだ。