<第34回>160キロのエネルギー

高校時代の最大の転機は3年春のセンバツだった。
2年夏に骨端線損傷を患い、秋の大会は投球禁止。翌年のセンバツ出場のかかった県大会と東北大会はまったく投げられなかった。ここぞという試合に野手、あるいは代打として出場しただけ。それでも花巻東は他の投手陣が踏ん張って、東北大会ベスト4に。大谷にとっては、仲間に連れていってもらったセンバツだった。
投球練習を始められたのは年明け。走り込みが不足したのも響いたのかもしれない。初戦で藤浪(現阪神)、森(現西武)のバッテリーを擁する大阪桐蔭に大敗。大谷は打者として右中間に本塁打を放ったものの、投手としては8回3分の2を7安打7四球9失点と火だるまになった。仲間に恩返しをすべきセンバツで、惨憺たる結果に終わった。
両親は失意の大谷を間近で支えた。センバツで負けた直後の山梨遠征には大谷の姉・結香(22)も含め家族3人が付いていった。
母親の加代子(51)がこう言った。
「ああいう負け方をして、すごく落ち込んでいたので、気になって気になって。何ができるというわけではないんですけど……。他の親御さんたちも子供が心配で、元気でやっているのか見に行く感じでした」
父親の徹(52)は大谷が花巻東に進んでからも、2年間、一関シニアのコーチを続けた。
しかし、一関シニアの選手が11~13人くらいに減ったことなどもあり、コーチを辞めた。「最後の年は翔平を見たいというのもあって、東北大会とか関東遠征も出来る限り見に行きました」と徹は話す。
花巻東の1年後輩で、現在も日本ハムでプレーする岸里亮佑外野手(20)は、花巻東が初戦で大阪桐蔭に敗れた試合に2年生ながらベンチ入り。「翔平さんは常にマイペースでした。どんなときも慌てない。野球に関して冷静さを失っているところは見たことがありません」と話す岸里はセンバツ後、大谷の変化に気付いたとこう言った。
「翔平さんが
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