大関昇進・朝乃山の転機 中学時代の左ヒジ骨折と不屈精神
「大関の名に恥じぬよう、相撲を愛し、力士として正義を全うし、一生懸命努力します」
25日、大関昇進が決まった朝乃山(26)が、協会からの使者を迎え、堂々と口上を述べた。
「一生懸命」は師匠の高砂親方(64=元大関朝潮)が大関昇進した際に言った言葉。「愛と正義」は母校・富山商業高校が掲げる校訓だ。この口上には高砂親方も「100点満点」とニンマリ。入門5年目の朝乃山は「こんなに早く大関になれるとは思ってなかった」と語り、「大関は看板力士。しっかりした言動をしていきたい」と、決意を新たにした。
■中学入学時は「鏡モチのよう」
本名は石橋広暉。1994年、相撲が盛んな富山市呉羽町で生まれた。朝乃山が卒業した呉羽小学校には明治・大正時代の横綱太刀山由来の土俵があり、相撲とハンドボールを掛け持ちしていた。
呉羽中学校でも当初はハンドボールの道を進もうとしていたが、練習の厳しさに耐えかねて退部、相撲部に入部した……といわれている。相撲部顧問の杉林雅章教諭は日刊ゲンダイの取材に、「正確に言うと……」と、こう続ける。
「ハンドボール部がグラウンドでランニングをすると、石橋くんは周回遅れになることが多かった。当時、彼は大きかったけど、ぽっちゃりした体形。今のような筋肉ムキムキではなく、鏡モチのようだった。そこで私は相撲部の3年生に『うまく誘えよ』と言って、勧誘したんです」
朝乃山を誘ったのは当時の3年生で現在、富山県のアイシン軽金属株式会社に所属する黒川宗一郎さん。世界相撲選手権の無差別級や、全国社会人相撲選手権で優勝経験のある、実業団相撲の猛者だ。
「勧誘したときのことはあまり覚えてないんですが、本人いわく『学校帰りの駄菓子屋に連れていかれて話をした』らしいです。ハンドボール部には入部してなかったはずですよ。入学して最初の2週間は部活見学の期間。体験入部はあったかもしれません。そこで悩んでいたらしく、『一度、相撲部の稽古を見に来ないか?』と声をかけたのは覚えています。中学時代は今のように相撲は強くなかったですね。身長が高い割にぽっちゃりしていたので……。ただ、マジメでコツコツやるタイプ。サボったりとか、この練習はやりたくないとか決して言わない。内心そう思っていたとしても、そうした雰囲気を絶対に見せなかった」(黒川さん)
本格的に相撲を取るようになった中学時代は、基礎稽古が中心。しこ、すり足、てっぽうに加え、黙々と筋トレをこなしていた。