1984年ロス五輪はエポックメーキングな大会だった
しかしロス五輪は①テレビ放映権を高額に設定②大会スポンサーを1業種1社に絞ることでスポンサー料を値上げ③不人気競技と人気競技のチケットの抱き合わせ販売によるチケットの収入増④マスコット「イーグルサム」など記念グッズの販売という4本柱を打ち立て、開催都市ロサンゼルス市の税金を使わないで大会を開催した。
そういえば、アメリカはチップの国でもあったが、各国記者が仕事をするワーキングルームでタバコを吸おうと灰皿を要求した際、それにもお金が要求されるほど収益増が徹底された。
1984年当時の日本サッカーは、指揮官に切り札と言われた森孝慈氏(故人)を起用し、メキシコW杯最終予選前の1月に対戦したブラジルの名門コリンチャンスに2勝1敗と勝ち越すなど期待は高まっていた。前線には「アジアの核弾頭」と言われた原博実(現Jリーグ副チェアマン)とキープ力に長けた柱谷幸一がいた。中盤には金田喜稔、木村和司、水沼貴史らのテクニシャンが揃い、守備陣はベテランGK田口光久(故人)、キャプテンシーに秀でた加藤久(現京都GM)らが固めていた。しかしシンガポールで行われた最終予選では、初戦のタイに2-5と惨敗するとマレーシア、イラク、カタール相手に1-2。4連敗で五輪出場の夢は儚く消えた。