「10月26日」は日本サッカーにとって不吉な数字と思われた
サッカー日本五輪代表物語 #2
1984年のロス五輪アジア最終予選は4連敗に終わった日本だったが、1986年メキシコW杯予選はアジア地区が東西にブロック分けされたこともあり、森孝慈監督(1943年生まれ。広島県出身。修道高ー早大ー三菱。元日本代表。1981年に日本代表監督に就任。Jリーグの浦和、福岡でさい配をふるった。2011年死去。67歳没)率いる日本代表は最終予選まで進出した。
しかし韓国との決勝はホームで1-2、アウェーでも0-1と敗れ、悲願のW杯初出場は果たせなかった。
アマチュアの限界を痛感した森監督は、代表選手と代表監督のプロ化を訴えたが、JFA(日本サッカー協会)事務局長だった長沼健氏(1930年生まれ。広島県出身。広島大付高ー関西学院大ー中央大ー古河電工。東京五輪、メキシコ五輪で代表監督。第8代JFA会長。2004年に旭日中授章受賞。2008年死去。77歳没)に「時期尚早」と退けられてしまった。
その森の後任として日本代表の監督に就任したのが、フジタ工業(現湘南ベルマーレ)でJSL(日本サッカーリーグ)優勝を果たした石井義信氏(1939年生まれ。広島県出身。福山葦陽高ー東洋工業サッカー部・現広島ー藤和不動産・現湘南でプレー。元日本代表。元フジタ監督。元湘南強化部長。2018年死去。79歳没)だった。