5.27に45歳の誕生日を迎えた柳沢敦「勝者のメンタリティーを若い世代に植え付けたい」
柳沢敦(鹿島ユース監督/45歳)
2002年に日本と韓国でアジア初のW杯が共同開催された(5月31日~6月30日)。フランス人監督トルシエに率いられた日本代表は、史上初のグループリーグ突破。決勝トーナメント一回戦でトルコに惜敗したとはいえ、母国開催W杯で大いに面目を施した。あれから20年。日本を熱狂の渦に巻き込んだトルシエジャパンの面々は今どこで何をやっているのか? カタールW杯に臨む森保ジャパンについて何を思うのか?
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日本がW杯初勝利を挙げた2002年日韓大会のロシア戦。稲本潤一(南葛SC )の決勝点をお膳立てしたのは、2トップの一角を占めた柳沢敦(鹿島ユース監督)だった。
「自分としては、もっといい落としができたな、と。ラストの質にはこだわりがありましたから」と実に彼らしい物言いで20年前を述懐した。
柳沢の代表実績は19998~2006年の58試合出場17得点。圧倒的な知名度に比べると、数字的にはやや少ない印象だ。
「ありきたりだけど、いい時も苦しい時もありました。2001年の(テストマッチ)イタリア戦のゴールはいい思い出だけど、できればW杯で1点取りたかったですね」と本人は本音を吐露する。
その願いを今、鹿島ユースで指導する選手たちに託すことになる。
鹿島6人全員がW杯メンバーに入った
日韓W杯メンバー23人を見ると、鹿島がJクラブ最多の6人。当時31歳の秋田豊(岩手監督)から22歳の曽ケ端準(鹿島GKアシスタントコーチ)まで幅広い面々が選出された。
「メンバー発表当日、鹿島のクラブハウスで6人全員揃ってテレビで会見を見ました。GKから名前が呼ばれるので、FWの自分は一番最後。『俺、大丈夫か?』と不安を憶えつつ、緊張しながら名前を聞いた記憶があります。誰か1人でも外れたら喜びが半減する。みんな残って本当に良かったと心から思いましたね」
98年フランスW杯落選を経験した柳沢にしてみれば、4年越しの大願成就。幼少期から夢見る大舞台に立てるのは特別なことだった。
初戦・ベルギー戦は「自分を信じてプレーするんだ」と心に決め、鹿島の先輩・鈴木隆行(解説者)と前線でコンビを組んでフル出場。勝ち点1獲得に貢献した。さらに2連勝したロシア、チュニジア戦も続けて先発。トルシエ監督から厚い信頼を寄せられた。
だが、決勝トーナメント一回戦のトルコ戦を前に原因不明の首の痛みに直面。ラウンド16の大一番には出られなかった。
雨の宮城のピッチには立てなかった
「トルシエには4年間、何度も怒られましたけど、あの時は何も言いませんでしたね。僕自身、状態が悪くて辛かった。それでもメディカルスタッフが、何とかやれる状態まで持っていってくれ、ベンチ入りもしたんですけど、トルシエは選んでくれませんでした。自分としては『途中からでも』という気持ちが強かったけど、雨の宮城のピッチには立てなかった。『W杯の大事な時になんでこうなるんだろう』という悔しさや不完全燃焼感は強かったです」と本人は苦笑していた。
もう1つの悔恨の念は、桧舞台での無得点という結果。FWというのは常にゴールを求められるのが宿命だ。動き出しの速さやゴール前の質にこだわる彼は、その論調に違和感を覚えることも多かったが、自身のサッカー哲学を周りに理解してもらえず、人知れず苦しんだ。
「当時は『プレーで証明するしかない』と覚悟を決めてましたけど、実際のところ、周りを納得させられなかったですね。今、監督になってみて、得点力の重要性を改めて感じますし、本当に大事な仕事だと痛感させられます」としみじみ語る。
日本人の武器スピードを生かしたい
現在の鹿島には、半年後のカタールW杯行きが有力視される上田綺世のような傑出したFWがいる。アカデミー出身選手が存在感を高めることは、クラブにとってもポジティブな要素と言っていい。
「スピード感やパワフルさ、ボールを受けてすぐにゴールに向かえる体の向きという点で、上田選手は本当に頭抜けていると思います。満男(小笠原=アカデミー・テクニカル・アドバイザー)も『自分が見てきた中で一番ヘディングのうまいFWだ』と絶賛していました。彼や鈴木優磨選手のように、ここ一番で大仕事のできる選手を僕も育てたい。正解はないけど、スピードという日本人の武器を生かせるように仕向けていくことで道が開けるのかなと思います」と指導者・柳沢は目を輝かせる。
2014年の引退後、鹿島に戻った彼は2021年にJFA公認S級ライセンスを取得。現在は小笠原たちとともにユースの強化にまい進している。
フロントスタッフとして携わるクラブ・リレーションズ・オフィサー(CRO)の中田浩二も時々、指導に参加してくれるという。トップGKコーチの曽ケ端は別行動だが、日韓W杯メンバー4人が常勝軍団発展のために尽力しているのは非常に心強い点だ。
鹿島のDNAを残したい
「4人とも歳を取ったなというのが率直な感想ですね(笑い)。僕自身は、好きな現場に居続けられるのを嬉しく思います。鹿島のDNAを残さないといけないという気持ちも強いですし、トップチームの主役になる選手をどんどん出すつもりで必死にやってます。満男と一緒に働けるのも大きいですね。選手時代は最高のラストパスを供給してくれるいいパートナー。鹿島20冠のほとんど知る男で勝者のメンタリティーを若い世代に植え付けようしてくれてます。サッカー観も幅広くて、僕が満男の話を聞きつつ、刺激をもらいながら指導しています」と、2人のコンビは20年以上の時が経過しても健在だ。
日本サッカー界が最も成長していた2002年日韓W杯前後の熱量を熟知する彼らによって、日本代表や鹿島がさらに強くなれば理想的。そうなるように5月27日に45回目のバースデーを迎えた柳沢には、高度な経験値を余すところなく還元していってほしいものである。