水沼貴史・宏太父子の「韓国戦が代表初ゴール」は真夏の夜の夢に終わった
敵地チャムシルで代表初ゴール
日本代表としても1984年の東南アジア遠征のブルネイB戦(7-1)でデビューするとすかさずゴールを決めた。
残念ながら1984年ロサンゼルス五輪のアジア最終予選は4連敗という結果に終わったが、この敗退によってGK田口光久氏(2019年に他界)、DF斉藤和夫氏、MF前田秀樹氏といったベテランは引退。若返った日本代表はDF陣が加藤久氏、松木安太郎氏、都並敏史氏ら読売クラブ勢が、攻撃陣は木村氏、水沼氏、柱谷幸一氏ら日産勢が主軸を形成することになった。
そして貴史氏が国際Aマッチ初ゴールを決めたのが、1984年9月30日にソウルで開催された「日韓定期戦」だった。
韓国は1986年に初のアジア大会を、1988年には同じく初となるソウル五輪を開催する。そのためにソウル市内を流れる漢江(ハンガン)の南に約7万人収容の蚕室(チャムシル)オリンピック競技場を建設。「こけら落とし」に日本が招待された。
この記念すべき試合に日本はベストメンバーで臨んだ。しかし、韓国は若手主体のチームが相手を務めた。
■豪快ボレーで敵地韓国戦初勝利
ロス五輪が商業主義を容認し、経済的にも成功を収めたことでプロ化の波が五輪に押し寄せつつあった。サッカーもプロ選手の出場を認める代わりに、年齢制限を設けるという噂が絶えなかった。
結局、年齢制限は1992年のバルセロナ五輪からとなったが、大韓サッカー協会は、1986年のメキシコW杯の出場を目ざす「フル代表」と、1988年ソウル五輪でメダル獲得を目指す「五輪代表」の2チームを作って強化に励んでいた。もっとも、五輪代表にはFW金鋳城らメキシコW杯にレギュラーとして出場する選手も含まれている好チームだった。
試合は木村氏が30メートルのFKを決めて先制。一時は1-1のタイスコアに追いつかれたものの、後半5分に加藤氏のFKをFW原博実氏がヘッドで落とすと貴史氏が豪快なボレーシュートを決め、これが日本の決勝点となった。日本が敵地でライバルの韓国に勝ったのは、この試合が初めてだった。