“卓球の女王”石川佳純をどう育てたのか…父親の公久さん「怒ったことは一度もありません」
しょっちゅう電話で相談
──「ファミリーヒストリー」では母方から「類いまれな勝負強さ」、父方から「苦難に負けない明るさ」を引き継いだと解説されていました。
女房からはストイックさ、私からは要領の良さ、世渡り上手を受け継いだんじゃないですか?
──DNAだけじゃなくて、しつけもあったと思います。どんな子でしたか?
生まれたときは2400グラムくらいで、すごく小さかった。すぐ泣きましたね。私が帰っても泣いているんで、車に乗せてその辺を一周して寝かしつけたりしました。食欲もあまりなくて、3、4歳くらいまでぜんそくの気もあった。ただ、立ち上がるのは早くて7カ月くらいですかね、すぐ歩き出して驚きました。
■子どものときから負けず嫌い
──「この子は違うな」と思った最初はいつですか?
佳純が小さい頃は、転勤で山口県のアパートに住んでいたんですが、前に広い駐車場があって、同年代の子どもと縄跳びとか鬼ごっことかやっていた。そうしたら、負けず嫌いでね。縄跳びを連続で何回できるかなどを競うと、勝つまでやめないんですね。
──相手が根負けしてしまう?
そうですね。卓球を始めたのは遅くて小学校に入ってからです。3、4年生になったとき、センスがあるなと思いました。具体的に言うと、ボールへの反応のスピード。これはのちに動体視力を測ってもらって、ずぬけていることがわかりました。それと、競り勝つんですよ。妹にも卓球をやらせていましたが、技術的には同じなのに妹は勝負どころで入らない。佳純は入る。本人が持っている運のようなものを感じましたね。
──奥さまの久美さんは元国体選手で福岡大の卓球部の同期ですよね。
女房は福岡出身ですが、福岡県では国体に出られなかった。レベルが高いんです。山口県に転勤して、山口なら出られるかもと練習を始めた。最初は学校の体育館みたいなところで練習していて、ステージにおもちゃを用意して子どもを勝手に遊ばせながら、私と一緒に練習をしました。その努力の甲斐があって国体に出られたんで、それじゃあ将来、卓球教室でも開けばいいかなと家を新築するときに卓球場も造ったんです。そうしたら、佳純もやりたいと言い出した。
──どんな卓球場ですか?
今は2台で、1台は世界選手権大阪大会で使用したものをメーカーさんから格安で譲っていただきました。
──いくらかかったんですか?
家の新築、土地代で4000万円くらいですかね。山口県はとても環境がいいんです。自然にあふれているし、卓球も盛ん、人もいい。佳純の応援はもちろん、凱旋の時もビックリするくらい人が来てくれるんです。人生は巡り合わせですが、私が山口県に転勤にならなかったら、佳純も卓球をやらなかったかもしれません。
──強制的にスパルタで始めさせたんじゃないんですね。
そうです。
──お父さんは怒るんですか?
怒ると怖いんですが、佳純に怒ったことはありません。
──それはなぜですか?
コーチ役の女房が怒るんで、2人で怒ったらあかんやろと。女房が怒っているときに、「そんなに怒らんでいいのにな」とか話しかけたりしてました。
──それで父娘仲がいい?
そう思いますね。電話もしょっちゅうかかってくるし、LINEも交換しています。仕事中とかに連絡が来ると、同僚や取引先から驚かれますよ。
──どんなやりとりを?
「この仕事どうかな?」とか。社会人としてのアドバイスを求められることもありますね。「社会ってそういうもんじゃなかやろ」とか返してます。向こうも本人は卓球しか知らないし、その辺は私を頼っているのかもしれません。
──アスリートの子どもを食い物にしている親御さんもいる中で、素晴らしいですね。
いまだに外食の支払いは私なんですよ。向こうが何倍も稼いでいるのに、「パパ、ごちそうさま」って。周りは花を持たせているんだろうと言いますが、違います。
──キャスターが楽しみですね。
「ちゃんと下調べしてからインタビューしろよ」とか言ってます。「わかってる」と返してきています。
▽石川公久(いしかわ・きみひさ) 1963年、松江市生まれ。福岡大を卒業後、読売広告西部に入社。2022年に常務取締役に就任。24年6月から専務取締役。