「巴水の日本憧憬」林望/文 川瀬巴水/画
近年、注目が集まる大正から昭和の時代に活躍した版画家・川瀬巴水の作品を林氏の解説で鑑賞するアートブック。
明治16(1883)年生まれの巴水は、幼いころから絵が好きで、鏑木清方に師事して絵の修行に励んでいた大正7年、伊東深水の木版画に触発され、版画制作に意欲を燃やすようになったという。
林氏は、巴水の木版画を、江戸の浮世絵の版画技術に依拠し、またそれを洗練しながら、精神の上では浮世絵と一線を画し、写生画としての木版風景画で全く新しい境地を開いたと評する。
冒頭に登場するのは、今年開園100年を迎えた井の頭公園の池のほとりに咲く桜の風景。今では池を覆うかのように水面に枝をせり出す大木の桜も、この作品が描かれた昭和6年にはまだ若木の装い。花見客もいない月明かりの中、妖しく咲いている。
関東大震災前の大正9年夏に描かれた「深川上の橋」は、隅田川に接する仙台堀の佐賀町河岸に架かっていた橋を描く。まるで広重の名所浮世絵に出てくるような木の橋は、東京に残る江戸の風景を描き残したものだ。
昭和30年作の晩年の傑作「笠岡の月」は、画面の半分以上が家屋のつくり出すシルエットで構成。影の中に目を凝らすと、古い家のしっくい壁や浴衣姿でたたずむ男が見えてくる。月と題名にあるが、家屋の後ろの明るさが、月の存在を予感させるだけで、月そのものは描かれていない。
雪の「千束池」(洗足池)や、「初秋の浦安」、夏の「信州木崎湖」など、全国を旅して回った巴水が土地土地で出合った風景を季節ごとに約50作品紹介する。
木崎湖のように今も観光スポットとなっている場所もあるが、巴水の作品の真骨頂は、名所を描く浮世絵と異なり「地元の人しか知らないような」風景を見つけ出し、生活者の視点でとらえた「『絵にならない風景』こそを絵にしている」ところにあると、川本三郎氏は寄稿で語る。
その言葉通り、現在の日立市の海辺の町で描いた「河原子乃夜雨」(昭和22年)、終戦直後の写生行で訪ねた「水木乃曇り日」(昭和21年)、現在の向島・白鬚橋の東一帯「雪に暮るゝ寺島村」(大正9年)など。何げない風景の中に巴水は「新しい美しさ」を見つけ、そこに暮らす人々を登場させ、彼らの営みに思いをはせる。
いまでは決して出合うことがない、だが、確かにそこにあった日本の失われた風景が、日本人のDNAを刺激するように見る者の心にしみる。(河出書房新社 3200円+税)