「おてんとうさんに申し訳ない 菅原文太伝」坂本俊夫著
映画「仁義なき戦い」や「トラック野郎」で独特の存在感を放った俳優・菅原文太。吠えまくっても、疎外感をにじませても、ズッコケてみせても、とにかくかっこよかった。晩年は俳優をやめ、水源地と森を守る活動や有機無農薬の野菜づくり、反原発・脱原発などの社会活動に深く関わった。
平成26年、81歳で永眠。死のわずか前、がんを抱えた体で沖縄に出向き、米軍基地の辺野古移設に異を唱えた。命尽きるまで活動をやめなかった。何がそうさせたのか。少年時代から「文太さんの映画」を見続けてきた著者が、その生涯をたどった。
昭和8年、宮城県仙台市生まれ。菅原文太は本名。父は「河北新報」の記者で、詩や絵画にも才能を発揮した。小学生のとき敗戦。仙台第一高等学校時代、ジャン・ギャバンに憧れ、授業をサボっては映画館に通った。しかし、俳優を目指していたわけではない。1浪して入った早稲田大学を、学費が払えず2年で除籍。アルバイトを転々とするうち、風貌を買われたのか映画出演の声がかかり、期せずして俳優業へ。しかし、なかなか芽が出ず、新東宝、松竹を渡り歩いた後、東映に居場所を求めた。
人気映画は時代とともに移り変わる。勧善懲悪と様式美を貫く東映時代劇の人気は陰り、鶴田浩二や高倉健の任侠ものが全盛期を迎えていた。文太は大スターたちの周りを回る脇役に甘んじていた。しかし、深作欣二監督との出会いが、俳優・菅原文太に独自の道を開き、「仁義なき戦い」で大ヒットを飛ばすことになる。
文太はスターになった。しかし、そこが到達点ではなかった。無類の読書家で、自分の哲学と社会に対する問題意識を強く持ち、俳優業の傍ら社会活動に時間を費やすようになっていく。世の中、このままではおてんとうさんに申し訳ない。スクリーンからはうかがい知れない菅原文太像が見えてくる。文太ファンを増やしそうな熱い評伝。
(現代書館 1800円+税)