「日々翻訳ざんげ」田口俊樹著
奇書である。「エンタメ翻訳この四十年」という副題の付いた本で、つまりはエンタメ翻訳の第一人者がこれまでの仕事を振り返る自伝である。その道で成功した人の自伝ならば、どこかに自慢話が潜むものだが、なんとこの本、そういう箇所がひとつもない。では、何が書かれているのか。自分がいかに誤訳をしてきたのか、その懺悔の記録なのである。
たとえば、1980年にローレンス・ブロック「泥棒は選べない」を訳したとき、主人公が「ブルーミングデールズ」の買い物袋を持って歩いているシーンがあったが、この「ブルーミングデールズ」がなんのことなのか著者は知らなかった。アメリカを代表する高級デパートだが、そのときはニューヨークに行ったこともないし、当時はウィキペディアもない。ニューヨーク在住6年という知人に聞いたら、大手のスーパーマーケットと言うので、そうかと迷うことなく、その通りに訳注を入れた。すると、ある作家の連載中の小説で、「ブルーミングデールズも最近は左前になったらしいね。スーパーに身売りしたそうだ。ポケミスの『泥棒は選べない』の訳注にそう書いてあった」とネタにされたという。ニューヨーク在住の知人は、三越と西友の違いもよくわからない人だったのである。
英日と日英は違うというのも面白く、後者が苦手な著者がジョン・ル・カレを怒らせた手紙の話がケッサク。翻訳の裏側をのぞくことができる快著だ。
(本の雑誌社 1760円)