町田康(作家)
6月×日 朝から原稿を書く。書きまくる。そして終わったら。やることがなにもない。だけどもう頭の中からはなにも出て来ない。そこで寝台に寝転がって本を読む。読みまくる。今日読んだのは、井伏鱒二著「荻窪風土記」(新潮社 605円)。むかし話をしているだけなのに文章に滲み出てくる滋味。諧謔味(かいぎゃくみ)に痺れてなにも考えられなくなって昏倒。ここで井伏が種にしている本も読みたいもんぢゃのう。
6月×日 最近、短歌が流行しているという記事を読むが気に食わない。なんとなれば、過多なエモーションを垂れ流して恥じぬどころか、それに自己愛を重ね合わせているように俺なんかには見えて、あた恥ずかしいと思ふからであるなりホトトギス。そんな中、たまたま読んで、これだ、これこそが本来の歌だ、と思うて快哉を叫んだのが、池松舞著「野球短歌」(ナナロク社 1760円)であった。切実な己の思いでありながら己を超えて人の心を和らげる。そんな歌の力がここには宿ってゐた。感動して昏倒。
6月×日 〽みたーかー、きいーたーかー、あのー短歌。と歌い出すのは今日も歌集をよんだから。今日読んだのは、水野しず著「見て見ぬフリをされるのに失敗」(しずshop 1100円)。「私」と世間が擦り合わさって鳴る軋み音のような言の葉が愉快なビートを拍っている。「アニメとか作ってる人の学校の裏のお墓の湿度はすごい」おもろくて昏倒。
6月×日 井伏鱒二が種にしていた本のひとつ森泰樹著「杉並區史探訪」(杉並郷土史会 絶版)を読んでみる。俺らの精神には、俺らの内面にはどれほど風景・景色の影響があるのだろうか。今、時折は訪れることもあるこれらの場所にさしたる感銘を受けることもないし、それどころか懶(ものう)い気分にさせられることの方が多い、だけど。ここがかつて恁(こ)うであった、という事になると俄然、高揚する。興奮する。大金を払ってしょうむない海外旅行をしたり、時間を費消して海外ドラマをみるより、えぐいものが過ぎた時間の中に在るなあ、と思って、興奮して、疲れて昏倒。