「ユーカラおとめ」泉ゆたか氏
「ユーカラおとめ」泉ゆたか氏
北海道の先住民族アイヌは、自然界の神が動植物などに宿るという精神性や独特の木彫り工芸などの文化を持っている。多くの人は、そう認識しているのではないだろうか。言語を介さずに文化を知ることはできないが、文字がないアイヌ語を大正末期に文字化したアイヌ女性がいたことはあまり知られていない。本書は、その人──知里幸恵の評伝小説だ。
「5年前、岩波文庫の『アイヌ神謡集』をたまたま読んだのが執筆のきっかけです。知里幸恵による、アイヌの人々が口承してきた神様の物語であるユーカラ13編の日本語訳とローマ字音訳でした。例えば『コタンコーカムイ』は『山の神様』。音の響きもいいでしょう?一読して、すてきな世界に魅了された後、アイヌ研究者・金田一京助が書いたあとがきを読んでびっくりしました。『知里幸恵さんは、亡くなられた』とあったからです。慌ててユーカラを読み直すと、美しい言葉に、余命いくばくもなかった彼女のつらい思いも入っていると感じ、胸に迫ってきたんです」
幸恵は1903(明治36)年、登別近郊の生まれ。7歳からキリスト教の布教師の伯母、祖母と共に旭川で暮らし、アイヌ語、日本語、英語を使いこなせる教育を受けた。金田一に招かれて1922(大正11)年5月に上京。金田一の家に寄寓して「アイヌ神謡集」を脱稿するも、心臓病で同年9月、19歳という短い生涯を閉じた。著者は文献を調べてそうした幸恵の輪郭を知り、アイヌ民族の誇りとユーカラに懸けた情熱に感動。「小説にしたい」気持ちに火がついた。
「まず、登別にある『知里幸恵 銀のしずく記念館』や幸恵の墓へ取材に行きましたが、私がそのときに思ったのは自分に都合のいい思想を入れず、幸恵の思いに即して書こうということ。幸恵はアイヌゆえに高等女学校を不合格になったり、進んだ職業学校で“和人”の級友に嘲り笑いをされたり悔しい思いをしてきて、金田一と出会ったわけです。物語は、幸恵が最も輝いた上京後に焦点を当てましたが、彼女はあるとき、金田一に思い切った発言をするんです」
アイヌを“土人”と呼ぶのはおやめなさい
アイヌ文化を伝えるという崇高な目的の下、金田一とは同志だから、彼がアイヌを「土人」と呼ぶのを幸恵は容認してきた。
しかし、見下した言葉だとの思いが澱のようにたまり、「アイヌを“土人”と呼ぶのは、金輪際おやめください」と言い放ったのだ。金田一の顔が歪んだ。
「幸恵は子供の頃から心臓が悪く、東京でも咳き込んだり、高熱を出したりよくしましたが、『私には時間がないのです』と自分を鼓舞して、鉛筆を握りました。自分に死が迫っていると自覚しながらも、死に直結する話--カラスを殺す、フクロウが天国に行くといったことが出てくる話も文字にしたんですね。彼女のユーカラに懸ける情熱、驚くばかりです」
神経衰弱の金田一の妻、無邪気な子供、勝ち気で先進的な女性、ユーカラを謡いにきたアイヌの男たちも登場。時代の空気感に浸るうち、幸恵の「ユーカラを書き記すことは、私が生まれてきた使命」という思いが伝わってきて、前のめりになること必至だ。
(講談社 1925円)
▽泉ゆたか(いずみ・ゆたか) 1982年生まれ。早稲田大学大学院修士課程修了。2016年に「お師匠さま、整いました」で第11回小説現代長編新人賞を受賞し、デビュー。「髪結百花」で第8回日本歴史時代作家協会賞、第2回細谷正充賞を受賞。近著「おばちゃんに言うてみ?」ほか。