桑野信義が振り返る 高給蹴ってシャネルズ加入後の貧困生活
プロデビューは高校卒業後の76年。横浜・関内のクラブ「ラテンクォーター」です。その後、渋谷のグランドキャバレー「エンパイア」に移籍して腕を磨きました。ギャラは月18万円ぐらい。グランドキャバレーやダンスホールの全盛期でしたから、駆け出しのミュージシャンながら、高給をもらってました。
ところが、その前年(75年)に「シャネルズ」を結成していた幼馴染みのリーダー(鈴木雅之さん)から、「サックスが抜けたんだけど」って誘われてね。頼まれたら「イヤ」とは言えない性格だから、1年遅れでメンバーに加わったってワケです。
でも、そのころの「シャネルズ」はまだアマチュアだから、旋盤工だったリーダーはじめ、メンバー全員が昼間働いて夜練習ってパターン。ボクもそれに倣い、月18万円のレギュラーを蹴って昼間はアルバイトの生活になりました。
やりましたよー、いろいろ。まずガソリンスタンド、次にスポーツ用品店。それから東京モノレールに流通センターって駅あるでしょ? あの両脇にずらっと並んでる巨大倉庫でピッキングと梱包作業。そのうち高級チョコレートのメーカーの専属になって、2トントラックで配送業務。いったん会社を出たら後は誰にも指図されないトラックドライバーの自由さが性に合って、それからはずっと凸版印刷とか、西濃運輸の仕事をしてました。