志村けんさん追悼秘話<上>元付き人・山崎まさやが語る最もトガってギラギラしていた“志村さん”
志村けんさん(享年70)が亡くなってから1年半。今月2日からは、松坂屋上野店(東京)で「志村けんの大爆笑展」(~17日)が開催されるなど、人気は今も衰えることがない。今から30年前の90年代初め、志村さんの付き人を務めていたのがタレントの山崎まさや(51)だ。当時、志村さんは40代前半。ドリフターズを離れ、ソロとしての活動も増え、生前“一番忙しくて、一番遊んでいた頃”と本人も語っていた時代だ。歴代の付き人の中でも、“最もトガってギラギラしていた頃”の志村さんを知る山崎まさやが当時を語る――。
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高校のときは、卒業したら警察官になろうと思っていたんですよ。刑事に憧れていたんで。ただ、もう一つやりたいことがあって、それがお笑いの道でした。
僕が迷っていると、東八郎さんのファンだった父がある日、「こんなのあったぞ」と東さんが主宰していた「笑塾」の塾生募集の切り抜きを持ってきたんです。それでオーディションを受けたら合格した。で、コントや殺陣の稽古に通い始めたんです。僕は3期生でした。当時、東さんは「バカ殿」で爺の役もやられていて、塾には同い年のアズマックスさんもいました。
もともと僕は「全員集合」が大好きで、小学校では“学校コント”の真似事もしていました。授業中に「ハイハイハイ!」と手を上げて、先生に指されると「わかりません!」と言って、友達が机をガタンと倒すという。初めて買ったレコードも「ヒゲダンス」のシングル。中学の文化祭ではコントもやりましたね。
しかし、入塾してしばらくすると、東さんが病気でお亡くなりになってしまったんです(1988年7月、享年52)。塾はその後もしばらく続いたんですが、そうこうしているうちに、志村けんさんの付き人の枠があるという話を塾からいただいて。「憧れのドリフターズの志村けんに会える!」と、すぐにお願いしました。
■「教えてやることはできないけど、見てやることはできるから。がんばって」
初めて志村さんにお会いした日は、今でも鮮明に覚えています。フジテレビの会議室だったんですが、ガチガチになって待っていたら、大勢のスタッフと一緒に志村さんが入ってきた。ラフなTシャツにジーンズ姿の志村さんからは、ものすごいオーラが出ていました。で、スタッフと少し談笑した後、隅っこで縮こまっていた僕の前に来て、ドンッと座られて一言。
「名前は?」
「山崎まさやと申します」
「教えてやることはできないけど、見てやることはできるから。がんばって」
「は、ハイ!」
その時の鋭い眼光は今でも忘れられません。当時志村さんは40歳になる直前。「全員集合」は終了し、「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」や「バカ殿様」をやりながら、「だいじょうぶだぁ」が始まった頃です。ソロとしての活動も増え、超お忙しくて、仕事も遊びも激アツでした。
「師匠」とは呼べず「志村さん」と呼んでいた
僕はその後、20歳から25歳くらいまで5年ほど付き人を務めることになるんですが、最初の半年くらいは怖くて、とても口をきけませんでした。
付き人といっても、運転手さんは別にいて、僕は免許を持っていなかったので、仕事は現場が中心です。カバン持ち、灰皿持ち、お茶、食事、衣装のお世話など、トイレと収録後のシャワー以外は、ずっとソバに付いていました。
僕は、おこがましくて「師匠」とはとても呼べずに、ずっと「志村さん」と呼んでいました。でも今、思い返してみても、志村さんに怒鳴られたことは一度もないんです。志村さんはいつも、それよりもっと怖い怒り方をされていましたから。 =つづく
(聞き手=平川隆一/日刊ゲンダイ)
▽やまざき・まさや 1970年1月18日、横浜市生まれ。お笑い芸人、タレント。「ジョーダンズ」としてコンビ活動したが2007年解散。現在、J:COMチャンネル「デイリーニュース」でキャスターを務めるほか、横浜市内で「山下公園花火大会」「横浜銀蝿」「DeNAベイスターズ」関連の各種イベントの司会などでも活躍。