戦争指導者は軍需に特化する予算を組めば勝てると盲信した

さらに続けるが、アメリカの戦略爆撃調査団報告書(その一部を訳した「日本戦争経済の崩壊」正木千冬訳)を読んでいくと、1941年度と42年度の日本の全生産量は比較的順調であった。40年度の国民総生産は398億円で、2年後の42年度には406億円とわずかに上昇している。この間に対米戦…
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