本田圭佑「虚像と実像」(12)星稜入りに指導者“たすきリレー”
そう話す田中も大体大の卒業生。年齢差はあるものの、後輩の河崎の人柄や指導法は熟知していた。
田中は続ける。
「河崎は義理堅いし、常に生徒の良さを引き出す指導者と評判やった。島田も、そんな河崎に圭佑を預けた方がいいと思ったのでしょう。だから島田から私のところに、『河崎さんのところで世話になろうと思います。どうでしょうか?』と相談された時、私も『圭佑、星稜がええんちゃう』と言いました。当時の星稜は県外生を受け入れていなかったはずやけど、河崎はその手はずも整えてくれた。圭佑の良さに気付いてくれてたんでしょう。圭佑も兄貴(弘幸)も星稜行きの経緯を詳しくは知らんかったはずやけど、実は裏で島田から河崎への『指導者のたすきリレー』が行われとった。もちろん、全ては圭佑の良さを最大限に生かすためやったんですけどね」
この「大体大人脈」で本田の人生は大きく変わった。
関西のサッカーエリートが集まるG大阪ジュニアユースでは、中学3年間ずっと控え選手だった。それが星稜では「あのガンバ出身の選手」と一目を置かれるようになった。サッカーのレベルは下がっても、本田にとって居心地は悪くなかった。成長痛もなくなり、身長180センチのフィジカルと強烈なキックを生み出す左足を自在に操りながら思う存分に攻撃、ゴールを量産した。高校2年になると「星稜の本田」は北陸で名を馳せ、瞬く間に全国に名をとどろかせていった。
この急成長に驚いたのが、中学時代のG大阪ジュニアユースの同僚、関係者だった。