川崎憲次郎氏が振り返る Rソックスオーナーから直筆の手紙
「『巨人を倒してほしい』という一言が決定打でした。12月に入る頃、携帯電話に星野さんから電話がかかってきて、そのとき決めかねていた気持ちが固まった。当時は、子供も生まれたばかりで、アメリカに行くなら家族と一緒にと思っていた。海外で子育てとなると不慣れなことも多い。ボク自身は子供を英語ペラペラにさせたかったんですけど(笑い)」
巨人戦26勝の右腕は中日と年俸2億円の4年契約(4年目はオプション)を結ぶ。しかし、3年間で登板はゼロ。移籍1年目のオープン戦で右肩を痛めたためだ。4年目の04年、落合新監督から開幕投手に指名されるも二回で降板。引退試合を含め、中日での登板はわずか3度だった。
「1週間、寝ずに考えて決めたこと。中日へ行った悔いは全くありませんでした」
今は権利取得のタイミングで所属球団が慰留する、いわゆる「下交渉」が一般的となっている。が、「ヤクルトはなかった」と川崎氏。
「当時の若松(勉)監督に『球団から話はあったか?』と聞かれ、『いや、ないです』と答えたとき、さすがの監督も焦っていました(笑い)」