中日にも在籍…「サイ・ヤング賞」初代受賞投手の壮絶人生
登板過多による故障、アルコール依存症、引退後の破産……。現在の大リーグで選手を取り巻く大きな問題だが、2月19日に92歳で死去したドン・ニューカムはこれらの問題に苦しみ、困難を乗り越えた代表的な野球選手のひとりだった。
1944年にニグロ・ナショナル・リーグのニューアーク・イーグルスに入団。49年にブルックリンに本拠を置いていたドジャースへの昇格を果たして新人王に。56年には38試合に登板して27勝を挙げて最多勝を獲得し、新たに創設されたサイ・ヤング賞の最初の受賞者となった。
現在と異なり、66年までサイ・ヤング賞はナショナル、アメリカンの両リーグから1人のみを選ぶ仕組みであった。従って、ホワイティ・フォード(ヤンキース)やウォーレン・スパーン(ブレーブス)といった優れた投手を抑えて受賞したニューカムを、誰もが「殿堂入り確実」と思った。
だが、56年のシーズン最終戦で登板過多により右ひじを故障したことが、ニューカムの野球人生を暗転させる。右ひじの故障を夫人にしか知らせていなかったため、監督のウォルター・オルストンはニューカムをヤンキースとのワールドシリーズに2回起用したものの、いずれも乱調に終わることになる。しかも、シリーズの終了後に故障を隠していたことが問題視され、元来気の合わなかったニューカムとオルストンの関係は悪化。結局、ニューカムは58年6月にレッズに放出され、60年にはインディアンスに移籍。62年には来日してドラゴンズに加入し、この年をもって現役を引退する。