日蔭温子さんは67歳に「あつこスマイル」で男性ファン魅了
日蔭温子プロ(ツアー18勝/67歳)
女子プロが出演して人気を博したレッスン番組があった。
「日蔭温子の日立サンデーゴルフ(前身は日立・お楽しみゴルフ)」(テレビ東京系)であり、1980年から9年間も続いた長寿番組だ。
わが国の草分けレッスン番組は、「あつこスマイル」が多くの男性ファンを魅了して視聴率も高かった。だが、当の日蔭温子は優勝争いに絡むツアー転戦と番組収録を両立させる忙しい日々を送っていた。
この4月に67歳になり、都内のホテルに現れた日蔭は凜としたたたずまいを見せ、「今でも気にはしています」と体形は昔とちっとも変わらない。
開口一番、「松山(英樹)君のマスターズ優勝は、苦しんできた時があったからこそ、取った時の喜びは10倍にも100倍にもなったのではないでしょうか」と、取材は日本人初のメジャー優勝の話題から始まった。
レッスン企画のオファー テレビ出演するのがイヤでした
日蔭も苦楽を経て輝かしい戦績を持つ。昨年2月にあることを思い立った。
「(現役時代だった)40年前の写真や記事を全部見直しました。貴重なものはコピーして、年別に区分けしました」と、自身のアーカイブ整理に着手した。そこには一世を風靡した写真集も含まれている。
「古い新聞は手が真っ黒になるんですよ」とゴム手袋を交換しながら、1日5~6時間をかけてコツコツ取り組み、作業が終わるまで半年以上を費やした。
プロ6年目の1980年「ヤクルトミルミル・レディース」でツアー初優勝。「日立サンデーゴルフ」の企画が立ち上がったのもその頃だった。
「私はテレビに出るのがイヤでイヤで、お話をいただいてから3カ月は断り続けたんです」
しかしスポンサーやテレビ局は諦めずに、口説き落として番組がスタートした。
「番組が始まってみれば楽しかった。いろいろなものを学ばせてもらった」という番組収録はシーズンの最中にも行われた。そのため3試合出たら1試合は収録のために休むスケジュールだった。
休んだ週に3カ月分をタメ撮りしたのだ。
ライバルたちは、「あっちゃん(日蔭プロ)は来週はいないわね」と優勝候補の一人が抜けるのを、冗談交じりに歓迎したそうだ。
一方で“テレビタレント”としての苦労もあった。
「私のスイングを真後ろから撮ると、トップでクラブヘッドが顔より前へ出ているのが自分でも見える。視聴者から『オーバースイングだ』とクレームがくるのも嫌だったので、カメラにはクラブヘッドが頭で隠れるように、左斜め後ろから撮ってもらいました」
9年続いた「サンデーゴルフ」の終了は日蔭のケガが理由だった。
88年「コニカ杯ワールドレディス」初日、プレー後に右大腿部肉離れのため棄権。その後にかばった左ひざを痛め(半月板損傷)、翌年2月に手術を受けてツアーを長期離脱。タメ撮りしてた収録分がなくなったからだ。
日蔭や関係者は「(放送開始から)9年間、(六三制の)義務教育が終わったようなものね」と納得し合ったという。
眉間を切る大けがから優勝し話題独占
日蔭はビジュアル系女子プロゴルファーの草分けともいえる。
コロナ禍の今はラウンドからも遠ざかっており、ゴルフは昨年8月に山梨のフォレスト鳴沢G&CCと河口湖CCでプレーしたのが最後だという。
往年のゴルフファンが真っ先に思い浮かべるのはパーシモンドライバーを操る日蔭のしなやかなスイングだろう。
「私はメタルドライバーを使わなかった。ちょうどメタルが出始めたころに、飛距離がパーシモンとそれほど差がなく、メタルを無理して使って体のどこかを痛めるより、(打感が柔らかい)パーシモンのほうがいいやと思った。その代わり(グリーン上で)1~2メートルのショートパットを入れればいいや、と使いませんでした。現役時代の最後もウッドはカーボンヘッドにチタンフェースをインサートしたクラブでした」
使用クラブのシャフト硬度は今も昔もメンズのR。ツアー出場時のクラブ構成はドライバー、3W、4W、5W、3~9I、PW、SW、パターの14本だった。
「今は道具が良くなっており、ちょっとトレーニングすればボールが飛ぶように作られている。そのうち3Iはいらなくなるでしょう」
■試合会場にけたたましい救急車のサイレン
日蔭はツアー会場で関係者が騒然とするアクシデントに見舞われたこともある。それも優勝する大会だった。
1993年「五洋建設レディース」は日蔭にとって現役最後のツアー18勝目を遂げた大会だ。前身「いすゞレディース」から4勝と相性抜群の試合だった。
その大会前日のプロアマ大会のプレー終了後、日蔭は救急車で運ばれる大けがを負った。
「クラブハウスの中から急いで外へ出ようとして、自動ドアが開いたものと勘違いして、思いっきりぶつかって眉間を切ってしまいました」
急いだ理由はキャディーを務めた仲の良い宇田川貴予美プロ(テレビ番組共演)に、タクシーで帰るのではなく、自分が運転する車で送っていくと伝えるためだった。
試合会場にけたたましいサイレン音が響き渡り、日蔭は救急車で病院へ搬送され、本大会出場が危ぶまれた。
ところが翌日の大会初日は台風で中止となり、終日宿舎のベッドで安静。そして2日目の第1ラウンドに強行出場した。
「額のばんそうこうをバイザーで隠していましたが、ショットやパットで下を向くと痛い。1ホール、1ホールをやっとの思いでプレーしました。それでも(開催コースの)富里GCは1度勝っているコースなのでどこに打てばいいか分かっていた」
第1ラウンドは5アンダーの67をマークして単独首位。2日間36ホールに短縮された最終日も1アンダーで回り通算6アンダー。2位に3打差をつけての逃げ切り優勝とすべての話題を独り占めにした。
「今だから言うけど、当時は周囲に『どこかで棄権しても宇田川プロには何も言わないでほしい』と頼んでいました」
宇田川が日蔭の優勝を誰よりも喜んでいたのは言うまでもない。
「ほかの選手からは『当たり年だわね。私もぶつかってこようかしら』とか言われました。本人は必死だったのにね。今思い出しても、おっちょこちょいでしたね(笑い)」
「俺を使え」とキャディー殺到
日蔭と岡本綾子(70)は日本女子プロゴルフ協会の同期(17期生)であり、人気を二分した。
岡本は1982年から91年まで米女子ツアーを主戦場に戦い、日蔭もほぼ同時期の82年から5シーズン出場資格を獲得し海外へ参戦している。
当時は欧州開催の試合もあり、年間に何回も海外との往復移動を挟むハードなスケジュールをこなした。その間には人気レッスン番組「日蔭温子の日立サンデーゴルフ」の収録もあり、実力派美人プロにはもうひとつ「鉄人」の称号が付いた。
87年に父・藤雄さんが急逝(享年65)。その後は国内ツアーに専念した。
同年は地元開催「安比高原レディース」を含む年間6勝を挙げる大活躍。大迫たつ子(69)との賞金女王タイトル争いはわずか23万円差で2位に甘んじた。
当時の活躍の要因は?
「米国での経験が生きたからだと思います。向こうでは予選を通るか、どうかの厳しさがあります。だから米女子ツアー挑戦初年(82年)に、帰国して日本女子オープン(新潟・フォレストGC西C)に勝ったときも、最終日前夜は緊張もなくグッスリ寝ていました(笑い)」
日米のコース設定の違いを体験したことが大きかった。
「ドライバー飛距離で同伴競技者から置いていかれても、『私は自分のゴルフを』と信じてプレーした。プロキャディーの間では『アツコは飛ばないけど必ず予選は通る』という情報が広まったのか、『俺を使えよ』とオファーが多かった(笑い)」
金銭面でも苦労した。
「1試合500ドルの出場保証金がありましたが、日本テレビさんとのスポンサー契約が支えになっていた。100ドル札を崩すときも慎重になり、支払いはトラベラーズチェックが便利で安全。宿泊先はLPGA指定のホテルが半額で“安全”も買えました。英語はゴルフ用語と『ビーフかポークかチキン』が言えれば何とか通じました」
米国15試合、日本22試合のシーズンも
日蔭は左ひざの負傷による長期離脱(88年夏~89年春)の後も、2度目の日本女子オープン制覇(92年)など6勝(ツアー通算18勝)を加えた。
「父を失い、ケガも乗り越え、失うものもあるがゴルフでは得るものもある。悲しいだけではなく、人間って面白いなあと感じました」
全盛期にはゴルフ場を離れても注目された。
「シーズンオフにはテレビ局とのお付き合いで、夜の街に遊びに行ったことはあります。そこで私を見つけた人が『遊んでばかり、銀座にいたね、赤坂にいたね』とか。たまたまいただけで、遊んでばかりいたら試合に勝てないですよ。シーズン中は絶対に遊びに出なかった。特に82年からは1月に渡米して米国15試合、日本22試合くらいの生活。体があってのことですもの」
プロとなり現在に至るまでに得た幾多の恩人への感謝の思いもある。
「スポンサーの方々、日蔭温子に携わってくださった方々に感謝申し上げます。地方でもお世話になり、応援が支えになりました。これからはお世話になった人にご挨拶したり、お元気であればゴルフもご一緒したい」=敬称略
(構成=フリーライター・三上元泰)
▽日蔭温子(ひかげ・あつこ) 1954年4月23日、岩手県生まれ。中卒後にバレーボール部のある鐘紡に就職。71年に武蔵CC豊岡C(埼玉)で業務の傍らゴルフを始め、都内ゴルフ練習場で研修生。74年に2度目の受験でプロテスト合格。日本女子オープン2勝などツアー通算18勝。82~86年は米女子ツアー挑戦。容姿端麗な実力派プロとして写真集出版。身長163センチ。