韓国出身プロの草分け金愛淑さんは申ジエをマネジメント
金愛淑さん(57歳)
申ジエ(33)らをマネジメントする金愛淑(キム・エースク=57)は、外国人初の日本女子プロゴルフ協会の正会員であり、具玉姫に次ぐ韓国出身プロの“草分け”的な存在として活躍し、人気が高かった。
今は夫のスポーツトレーナー・山田敬一氏(58)と営む東京・白金にある「クラウネッドゴルフ」でレッスンも行う。
何年たっても変わらない笑顔で出迎えてくれた金愛淑に、先の全米女子オープンについて聞いた。
「渋野日向子選手が全英女子オープンに優勝した時も感動し、若い日本の女子選手がもっと活躍するだろうとは思っていました。今回、笹生優花選手の勝利で日本人選手にとって海外メジャーの壁がもっと薄くなり、多くの若手に最高の希望を与えてくれましたね」
近年の海外メジャーといえば韓国勢同士の優勝争いが定番だった。
「日本女子ツアーは韓国選手の前は台湾の選手が活躍していましたよね。その後は韓国の選手たちが精度を上げたけど、決して日本の女子プロゴルファーが弱かったわけじゃない。今までは海外での生活や環境の変化に早く対応する能力が足りなかったのではないでしょうか。それを克服すれば海外メジャー制覇は夢ではない。最近は畑岡奈紗選手や山口すず夏選手のように経験が何もない状態から海外へ挑戦する日本選手が出ています。今回は負けて悔しいだろうけど畑岡選手も世界の壁を薄くした一人ですよ」
■コロナ禍以降の韓国選手の成績不振の要因をズバリ
今の韓国と日本の近況についてこう解説する。
「韓国ではキム・ヒョージュの下の世代からスター選手が見当たらない状態です。日本では稲見萌寧選手や古江彩佳選手ら若い人が頑張り、それを追う選手がどんどん出ている。それは宮里藍さんの時代から、次の世代へと脈々と夢を伝え続けてきたからでしょう」
韓国ではルーキーイヤーの1998年全米女子プロ、全米女子オープンとメジャーに連勝した朴セリが起爆剤となった。
「朴セリは韓国が経済危機の時に国民に勇気を与えた。アメリカン・ドリームによって『ゴルフをやればお金がもうかる』。そこから出てきたのが朴仁妃であり申ジエであり、それを目標にしたのがキム・ヒョージュらの世代です。有望なジュニアへの特待生制度も今は練習時間が減ってきている。そのいっぽうで日本はナショナルチームへの競争率がすごいですよね」
コロナ禍前の日本女子ツアーはアン・ソンジュ、イ・ボミ、キム・ハヌルらの韓国勢が席巻したが、20~21年は申ジエが挙げた2勝のみだ。
金愛淑は韓国勢の不振の要因をズバリ分析する。
「(日本にいる韓国勢は)皆ちょっとホームシックにかかっている。以前は近いからシーズン途中で何度か韓国に帰ったりしていましたが、今は韓国で2週間、日本で2週間の隔離生活を強いられるから、帰りたくても帰れない。日本ではゴルフ以外のことを話せる人と会えず、寂しがっています」
ホームシックによるメンタル面がスコアに影響しており、「私としては何かストレス発散法はないかなと探している」と言う。
「プロゴルファー育成候補に選ばれちゃった」
韓国出身選手と日本ツアーをつなぐパイプ役として頼りにされる金愛淑は現在、申ジエ(33)、ペ・ソンウ(27)と中学2年生から指導する金沢志奈(25)のプロ3選手をマネジメントし、自身も2~3週に1度は試合会場へ足を運んでいる。
さらに最終プロテスト(6月22日~)に出場する日本人教え子2人、日本女子アマ(同15日開幕)出場の高野愛姫(埼玉栄高2年)ら将来有望な5選手もサポートしている。
「20歳の頃に来日してから日本の企業にお世話になりました。今は何か恩返しすることができないか。韓国の選手は放っておいても育つじゃないですか(笑い)。私は韓国選手たちと接点があるから、合宿で日本と韓国の選手を合流させて訓練をさせたいというのが日本のジュニアを指導しようとしたきっかけです」
コロナ禍前の約10年間はタイ、豪州と合宿先をあえて韓国ナショナルチームと同じ場所を選んだ。
■投てき競技で五輪を目指すも…
金愛淑はもともと砲丸投げの選手だった。
身長160センチを超えた中学時代には15.20メートルの韓国ジュニア記録を樹立。半ば強制的にソウル体育高校へ進学した。
当時の韓国では「ゴルフはまだお金持ちのレジャー」。投てき競技での五輪出場を目指し大学進学を考えていた。
ところが卒業前年の秋に高校の校長から「ソウルCCからプロゴルファー育成のスカウトが来ているからやってみないか」と誘われ、初めてクラブを握った。
11月から3カ月間だけゴルフに集中して、才能がなければ教育大学へ進むつもりだった。
「それがプロ候補に選ばれ、一生ゴルフになっちゃったんです」
ソウルCCで1年半の研修後、矢板CC(栃木)で日韓交流プロゴルファー育成企画が立ち上がり、ゴルフ関係者による選抜試験を突破して4人のプロ候補の中に入った。
「筋力があり、飛ばし屋だから選ばれたのかもしれません」
ソウル時代に金愛淑がスイングの見本としたのは、日本から取り寄せたゴルフ誌に載っていた岡本綾子の連続写真だった。
そして21歳の1985年2月に初来日。
「韓国でプロになる前に4月の滋賀・信楽CCで日本女子プロゴルフ協会のプロテストを受けたら、一発で合格。バンカーショットはうまくないけど(笑い)、他のスポーツをやってきて体力には自信があり、緊張感にも強かった。練習量も人よりは多かったですね」
86年から日本女子ツアーに参戦し、98年「ダイキン・オーキッド」での初優勝まで13年かかったが、その間に多くの優勝争いを演じ、シード選手としてのキャリアを積み上げ、同時に今につながる「出会い」に支えられた。
申ジエとマネジメント契約した3カ月後にメジャーV
金愛淑はプロ4年目の1988年開幕戦「ダイキンオーキッド」で招待選手のパティ・シーハン(米国)と同じ組で上位争い。「初めて見た」というロブショットに衝撃を受けた。
翌週、大分で「九州の若鷹」の異名をとる鈴木規夫プロ(69)と初対面すると、いきなり「おまえはプロじゃない」と一喝された。前週に短いパットを外し、パターを蹴ったシーンがテレビに映ったからだ。
その場で金愛淑は号泣し、「プロが何なのか、ゴルフが何なのか分からない。私にゴルフを教えてください」と懇願した。今も続く師弟関係がその時から始まり、翌年(89年)にシード選手入りした。
後年、鈴木のパーティーで、「人生って人との出会いがすべてです」とスピーチしている。
40歳を過ぎ、大会中の膝の負傷を契機に病院で精密検査をすると首や腰のヘルニアが発覚。
「私はどこに向かっていくのだろう。このままじゃだめだ」と韓国に戻ってソウル市南部の忠清南道にある鶏龍山で1カ月の“山ごもり”。出た結論は、「プライドを捨てたら何でもできる。金愛淑は生まれ変わる」だった。
夫・山田敬一氏(58)との“二人三脚”で現役時から後輩韓国選手たちの日本ツアーへのパイプ役を担った。辛ヒョンジュ(2008年日本女子プロ選手権優勝)らに「(金銭契約で)正式にやってくれないと頼めなくなる」とも言われ、本格的なマネジメント業務に着手した。最初に契約したのが申ジエだった。
「08年5月のワールドレディス(東京よみうりCC)で初めて見たら福嶋晃子とのプレーオフ。でも、不思議な子。すごいオーラがあるわけでもない。ポチャポチャ、眼鏡、ニコニコ、でもショットはピタッ、すごい自然体。私にはないものばかり」
「どういうプロになりたいの?」と申に聞くと、
「尊敬されるプロになりたいです」
「わかった、日本で一緒に苦労しよう」とマネジメントが始まった。
だが想定外の快挙が待っていた。3カ月後の同年8月、「全英女子オープン」で20歳の申ジエがメジャー優勝し、米女子ツアーに参戦することになった。
「金プロ、私米国でいったんプレーして、また日本に戻るようにします」
米国で賞金女王(09年)、世界ランキング1位(10年5月~25週連続)となり、14年に約束通り日本へ戻ってきた。
■申ジエは米ツアーで得たスポンサー契約を全部打ち切る
申が「日本の文化や礼儀を学びたいです」と言い、「米国では夢をかなえた。ただ日本の賞金女王にはなっていないから、それを目指しなさい。それとたくさんの人と出会いなさい」とアドバイスした。
申は米ツアーで得たスポンサー契約を全部打ち切って日本に来たので迎える側の責任も大きい。
日本を主戦場とした初年(14年)はスポンサーロゴのない帽子をかぶった。
「申は尊敬されるプロになりつつあるのではないですか。人との出会いも着実につくっています。まだ33歳だけど考え方は深い。彼女は日本が好き。クリスチャンだけど私と神社とかにも行きます」
金愛淑は最後に一言。
「日韓が歴史を超えて仲良くなってほしい。私は運よく日本という国に育ててもらいました。私の今の身近な役割も日韓交流の一部なのかなと思います」 =この項おわり
(構成=三上元泰/フリーライター)
▽金愛淑(キム・エースク) 1963年9月6日、韓国・ソウル市出身。ソウル体育高校時代は陸上競技・砲丸投げの国体級選手。初めてゴルフクラブを握ってから短期間で草創期の韓国女子プロ育成候補となり、日韓交流企画で85年春に日本女子プロテスト合格。同年8月・日本女子プロゴルフ協会入会(49期生)。95年1月にスポーツトレーナー・山田敬一氏と国際結婚。プロ14年目の98年「ダイキンオーキッド」でツアー初優勝。日本語検定試験1級にも合格、礼儀正しさと温和な対応で人望を集め、後輩韓国選手の後見人として申ジエらをサポート。ティーチングプロ資格A級も有し、現在は都内施設を拠点に幅広く活動する。身長167センチ。