チームを日本一に導いたバレンタイン監督の下、私は04年から09年までの6年間、ヘッドコーチを務めた。日本一になった05年には、実に126通りもの打順を組んだが、それを選手に伝える役割を担っていた。
前回の95年の監督時は選手としてプレーし、2位に躍進。コーチ修業をしていた97年には、米アリゾナでの野球留学時にドジャースタジアムに招待をしてくれるなど、親しみを感じていた。
ただ、監督やコーチ、選手との「パイプ役」「クッション役」をやっていく上で、外国人監督であるボビーと円滑なコミュニケーションを図るには、それなりの苦労もあった。 (つづく)